「空」論を机上の空論にしないために…

 「空」論は空理空論、絵空事かも知れない。だが、それに決着をつける前に、零の発見がインド数学の優れた功績であることを想い出しておこう。それは、次のように表現されている。

 

「かくして零の発見、単なる記号としてばかりでなく、数としての零の認識、つづいては、この新しい零という「数」を用いてする計算法の発明、これらの事業を成就するためには、けっきょくインド人の天才にまたなければならなかったのであった。」 (吉田洋一、『零の発見』、岩波新書、p.20)

 

この引用の中には二つの零の発見が述べられていて、それらは次のようにまとまられるだろう。

<記号(空位)としての零>

 位取り記数法では、空位を表す記号が必要になる。3と30の違い、30と300の違いを表現しなければならない。位取り記数法は、数字を入れる位置が指定されているから、そこに何かの数字をいれなければ記法が完成しない。30の0,300の00が必要となる。このような意味での零の用法は、エジプト、バビロニア等の古代文明の中でそれぞれ独自の形で見られる。

<数(演算の対象)としての零>

 演算の対象としての零が最初に発見されたのがインド、3+0、3・0が3+5,3・5と同じように計算されるには、0は5と同じ数でなければならない。インドで零は他の数と同じように計算できる数になり、真に数の一つとなった。

 零と同じように点についても、同じような二つの意味を考えることができる。記号としての点と、図形(あるいは幾何学の対象)としての点である。零は記号としての発見の方が遥かに早く、インドでも数としての零が最初から存在していた訳ではなかった。だが、『原論』の定義の最初にあるように、点は幾何学的な対象としてまず登場する。それが記号として認識されるのはデカルト以降の解析幾何学においてであり、対象の位置を表現する記号として重要な役割を担うことになる。表示するための記号としての点と存在するものとしての点は零の二つの意味と対応しており、後に点と数との対応が明示的になる出発点となっている。まず対象として認識され、それがさらに別の対象を表示するための記号として使われる、これが点の歴史である。

 ここで、零と点の違いを指摘するなら、零はまず記号として、次に数という対象して認識されたが、点はまず図形という対象として、次に記号として認識されたことである。つまり、何が先に発見されたかの順番が逆になっているが、零も点も同じ二つの役割をもっている点は同じ。さらに、「点は零ではない」と主張する人がいるだろうが、ユークリッドの定義から、点にはサイズがない、つまり、点のサイズは零なのである。

 2世紀に生まれた龍樹(ナーガールジュナ)は、仏教の原初からあった「空」の考えかたを、『般若経』の「空」の解釈によって深め、体系化した。その「空」の思想は中観派として後に多大な影響を及ぼす。「空」のサンスクリットの原語は「欠如」という意味。また、インド人が発見した零を表していて、その詳しい内容は上述の通りである。当初の仏教経典では単に「空虚」や「欠如」という意味に用いられていたようで、紀元前後に『般若経』が成立する以前には、「空」は仏教の中心思想ではなかった。龍樹は零や否定を基礎に、その形而上学として空の思想を発展させたのである。
 初期大乗の『般若経』は部派仏教を「空」の立場から批判する。また、『般若経』は何ものにもとらわれない「空」の立場に立ち、その境地に到達するための菩醍の行(六波羅蜜)の実践を説き、般若波羅蜜の体得を強調する。龍樹はこれを受けて、空の思想を論理的・哲学的に整理し、それまでの上座部仏教の思想がその原理を実体化すると矛盾に陥ることを示し、「すべてのものは実体がなく空である(無自性)」という立場を表明している。では、龍樹の説く「空」とは何か。空は非存在、つまり無を意味するから、何も存在しないというのは誤解。また、空の説はすべての言語習慣や倫理・道徳を無意味なものとするというのも誤っている。「すべては固有の本質をもたず変化する」というのが空だと主張したのが龍樹。初期仏教の中心的な思想が無我、非我であるのに対して、空の思想は大乗仏教において初めて登場したというのも誤解で、ブッダが説いた無我の思想をさらに敷衍して「諸法は固有・不変の本質をもたない」と一般化したのが龍樹である。
 空の語源はサンスクリット語のシューンヤで、「家に人がいない」というような時に使われ、「期待される何かを欠いた」状態を指す。だから、シューンヤ自体は「空の」、「うつろな」、「欠いている」などの否定形で表現されるものを指し、算術の零を意味している。仏教では「AはBを欠いている」あるいは「AにはBがない」などと空を表現した。この場合のAには「諸法」が、Bには実体的な「自我(アートマン)」や実体的な「固有の本質」などが入る。
 『般若経』は実践徳目として智慧の完成(般若波羅蜜)の重要性を強調する。そして、ブッダの悟りの本質もこの智慧の完成であるとし、智慧の完成を求める者すべてを菩薩と呼んだ。そして、菩薩は悟りや涅槃をも含むあらゆるものに固定した特徴を見ることがなく、すべてに無執着であるとして、この無執着のあり方を「空」と呼んだ。『般若経』が智慧の完成とともに、無執着のあり方としての空を強調したのは、当時のインドで最有力の部派であった説一切有部が、諸法、すなわち心身の構成要素には固有・不変の本質がある、と解釈することへの強い批判があったからである。そして、この『般若経』の空をより詳細に考察し、伝統部派による縁起解釈に対して、「縁起する、すなわち原因によって生じるものごとは固有の本質をもたない」という空の立場から改めて批判したのが龍樹だった。

 零をもとに、その一般化された否定や無を強調しながらブッダの思想を再編したのが龍樹だと考えるなら、彼の仏教解釈は零や無を含む空に焦点を当てたものだった。それが古代インドの仏教を知るための私なりの結論だが、この無手勝流がどこまで通用するのか、私には皆目見当がつかない。