『創世記』の物語:イサクの燔祭(2)

 アブラハムの熱烈な信奉者であった哲学者セーレン・キルケゴールは、その著書『おそれとおののき』(白水社版著作集第5巻)で、イサクの燔祭に際してのアブラハムの心理状態を考察し、不条理な信仰と懐疑論に陥らない人生の可能性について考察し、それを成し遂げたアブラハムを信仰の英雄として讃えている。キルケゴールは、アブラハムには最も背徳的ともいえる手段、すなわち自殺という選択肢があったにもかかわらず、その絶望の境地から一躍、信仰の父としての評価を勝ち取ったと捉え、次のように述べている(同書、p.190, p.197)。

もしこの言葉がなかったら、この出来事全体には何かが欠けていることになるだろう。もしこの言葉がこれとは違っていたら、おそらくすべては混乱に陥ってしまうであろう。そこでたとえば、アブラハムが最後の瞬間に、イサクに向って、それはお前なのだ、と言ったとしたら、それは弱さを示すにすぎないであろう。なぜなら、もしいやしくも彼が語ることができるのであったら、彼はずっと前に語らねばならなかったであろうし、…そのときもしアブラハムが、わたしは何も知らない、と答えたとしたら、彼は非真実(いつわり)を言ったことになるであろう。彼を何事かを言うことができない、つまり、彼は彼の知っていることを言うことができない。そこで彼は、子よ、神みずから生贄の子羊を供えてくださるであろう、と答える。

キルケゴールは「倫理」の次元と「信仰」の次元を峻別する。「倫理」の次元で言えば、アブラハムは、家族にも黙って息子を殺そうとした犯罪者であり、殺人者である。だが「信仰」の次元では「信仰の騎士」である。「倫理」の次元では、アブラハムは語る言葉を持たない。「生贄の羊はどこ」とイサクに問われて、「それは、お前のことだよ」とも、「さあ、どこにいるのだろうね、私は知らないよ」とも言うことはできない。ありうる唯一の言葉は、倫理を超越した異邦人の「子よ、全焼の供犠となる羊は神が見いだされよう」ということ以外にはない。

しかしアブラハムを理解することは何人にもできなかった。それにしても、彼は何をなしとげたというのであろうか? 彼はどこまでも彼の愛に忠実であり続けたのだ。しかし神を愛するものは、涙を必要としない、驚嘆を必要としない、彼は愛において苦悩を忘れる。いや、もし神みずからがそれを思い出させたもうのでなければ、彼が苦痛に悩んだことを夢にも感じさせるような跡を残さないほど完全に、彼はそれを忘れたのである。なぜなら、神は隠れたことを見たまい、苦悩を知りたまい、涙を数えたまい、そして、何ものをも忘れたまわぬからである。(p.197)

さすがにキルケゴールは見事な解釈をしている。しかも、最後の文章はマタイ伝から取られており、生贄に差し出したわが子を救い出すというイサク奉献の物語を、はるか後世のイエスの復活と重ねているようにも読める。

 後期のデリダの『死を与える』(Donner la mort(1992)廣瀬、林 訳 筑摩書房2004)の主題もアブラハムとイサクの物語である。アブラハムの物語が『旧約聖書』であるということから、ユダヤ教徒キリスト教徒でない人でも、この物語が「信仰」なるものの核心を言い当てていると言われるとつい頷いてしまう。多くの神学者や哲学者が、このストーリーに解釈をくわえてきた。キルケゴールは、祝福の約束と死の命令のあいだの矛盾を超えたところに、キリスト教的な信仰における「実存」の本質があるとして、それを逆説弁証法と呼んでいる。デリダもまた、「他者」(=神)に対する無限の責任は通常の正義を越えたところにあると解釈している。
 では、神を信じて、神の視点で行動すればよいのかといえば、それ程簡単な話ではない。神の存在を前提として受け入れたとしても、誰が神の言葉を正確に聞いて、私たちに伝えてくれるかといえば、誰にもわからない。神を信じる点では共通していても、信じるべき「宗派の教義」や「預言者の言葉」が異なれば、おたがいが神を騙る悪魔にしか思えない。そもそも、人間は有限な視点しかもてない。そのため、無限の神が必要だといっても、有限な視点しかもたない人間が無限の神を知っているというのは矛盾である。
 では、そのような人間的な常識の投影を越えて、「他者」に対する無限の応答可能性としての「正義」に到達できるのか。答えは簡単で、人間として、「死」ぬしかない。つまり、人間としての常識をいったん白紙にして、無限の他者としての神の声を聴ける体勢になる必要がある。それが「死」である。
 動物は、何かが起きると「反応」する。この反応に倫理学的な責任はない。過去にやったことを、みずからの内面で「反省」しない限り、それは単なる反応でしかない。犬が人を噛んで怪我をさせ、怒った人たちがその犬を殺したとする。だが、犬を殺したからといって、それで犬に責任を取らせたと思う人はいない。犬が強暴だから殺したということに過ぎない。
 「責任=応答可能性」の基盤となる人格の「継続性」が、ここでは問題となる。そう考えていくと、「責任」は、不可避的には「死」の問題とつながってくる。法律的な「責任」の範疇で考えれば、私が悪いことをしたことが、私が死ぬまでどの他人にもわからなかったとしたら、死んでしまった私はもうこの世にはいないので、それ以上の責任を追及されない。それなら、自分の墓まで秘密を持っていけばよい、ということになる。だが、相手を消滅させても責任は消えない。「誰かがかならず見ているので、悪いことはできない」といっても、説得力はない。死後にも、私の「責任=応答可能性」を継続させるものがないと、法的正義を超えるような、絶対的な「責任」の観念は出てこない。そのため、「死」というモチーフが、「責任=応答可能性」の文脈で出てくることになる。それが、『死を与える』ということである。
 こうした問題は『実践理性批判』でカントが提起していた。カントは、人間が理性に基づいて善を追求するには、「意志の自由」と「魂の不死」、そして「神」が必要である、としている。この私は、自然の法則にしたがって機械的に動いている動物のような存在ではなくて、自由意志にしたがって自己の行為について選択し、判断できる存在である。だから、自分が行ったことに対しては「責任=応答可能性」が生じる。そして、この私の魂は死後も継続していて、それを絶対的な神が見ている。したがって、自分がやったことに対する「応答可能性」から逃れられない、ということになる。この三つのうち、「魂の不死」と「神」が抜けてしまうと、善を追求する意味がなくなる。人格の継続性を考えるときに、性格は変わるかもしれないし、記憶も変わるかもしれないが、その根底にある「魂」は死後も変わらないものである。そのような信念こそが、倫理や道徳の根拠になる。
 カントは『純粋理性批判』で神の存在は証明できないと明言している。一方で、道徳の根拠としての「神」という観念は不可欠だと主張する。さらに、自分と他人の魂を関係づけているものは「神」だと述べる。デリダは『死を与える』で同じことを示唆している。「人間、死ねば終わりだ」と思っていれば、「責任=応答可能性」を引き受ける主体としての「私」もいつか消滅する。それと同時に、責任を追及する他者もいつかは消滅する。そもそも、相手の中に、私と同じような心があるかどうかさえ、わからない。「私と同じような自由意志を持った他者がいて、その他者も私と同じように不死の魂を持ち、永遠に私に応答を求めてくる」ということが成り立つには、絶対他者としての「神」が必要になってくる。魂のようなものが死後も存在し続けると想定しなければ、道徳や倫理は機能しなくなってしまう。
 「死を与える」と言う表現は違和感があるが、主君が家臣に対して切腹を命じて、家臣がそれを受け入れるというのも、基本的には「死を与える」、「死を賜る」という関係である。殉死は「死」のやりとりである。「与え」られる筈の「死」と直面することにより、魂の不死性という観念への気づきが生まれ、そこから人は、「責任」について本格的に考えるようになるというのが西欧的な発想の基本だった。

 このようなイサクの燔祭についての考察は確かに伝統的で、宗教のある面を表現しているのだろうが、現代の日本人にどれだけ説得力があるのか考え出すと、明るい気持ちになれないのは私一人ではなく、宗教がますます謎めいてくるのである。