2018-08-01から1ヶ月間の記事一覧

ヘメロカリス、あるいはニッコウキスゲ

野生のニッコウキスゲ、ユウスゲやカンゾウ類を品種改良して生まれた園芸種がヘメロカリス。ニッコウキスゲは、ヘメロカリスの野生種ですが、野生種とは思えないほど、美しい花を咲かせます。日本にはニッコウキスゲやノカンゾウ、ヤブカンゾウが自生し、古…

天然ものと養殖(栽培)もの:雑感

人の見方とは勝手なもので、動物と植物では天然ものと養殖(栽培)ものについての見方が随分と違っている。実際、動物は養殖、植物は栽培と言葉遣いまで違っているのだ。だが、野生種と園芸種、天然ものと養殖ものには共通するものも多い。いずれであれ、私…

夏の空

画像は東京湾岸の朝、昼、晩の空の景色だが、残念ながら温度や湿度は伝わってこない。今年の暑さが伝わらないのはもどかしい限りだが、さらに気温が上昇し、二酸化炭素が増えていくと、一体どのような風景に変わっていくのだろうか。朝焼けや夕焼け、青空や…

「意識」の曖昧さと「第一義」の曖昧さ

意識は「何かの」意識と補って捉えないと、「意識」だけでは茫洋としているだけで、何を指すのか正直わからない。それなのに私たちは意識という言葉を躊躇なく使い、「意識」だけで指示内容がわかったかのように考え、使ってきた。だが、実際のところ「意識…

ニチニチソウ、それともビンカ

ニチニチソウに高温と日照を好む乾燥に強い丈夫な植物。昨今の日本の気候にはぴったりで、花壇には欠かせない存在。ニチニチソウ属の植物の多くはアフリカのマダガスカルに分布し、現在の品種群はそれを中心に改良したもの。 ニチニチソウはビンカとも呼ばれ…

行為と倫理について(11)

8進化論と倫理学の関係 生物学と倫理の間にどのような関係を見つけることができるのか。倫理に対して進化論はどのようなことが言えるのか。スペンサー(Herbert Spencer, 1820-1903)は生物進化、社会進化、そして道徳の進化は宇宙的な進化という単一過程の…

もう一つのペチュニア

「スーパーチュニア」はアメリカ、カナダ、ヨーロッパ各国で発売されている優れたペチュニア。一般的なペチュニアに比べ、夏の暑さにも負けることなく花をつける。春早くから秋遅くまで開花し、花は雨に強く、たとえ痛んだとしても、強健で生育が早いためす…

桃色吐息

見事な色のペチュニアだと見惚れ、調べればその名は何と「桃色吐息」。マザー牧場の広大な花畑の花がその「桃色吐息」。2014年にペチュニアを品種改良した「桃色吐息」の広大な花畑が誕生し、夏から秋にかけて鹿野山の山肌は鮮やかなピンク色に染まる。 「桃…

行為と倫理について(10)

20世紀の倫理思想(2)(1) David Ross, The Right and the Good(1930) ロスの本はムーアの『倫理学原理』の功利主義への反対として書かれた。ロスは正しい行為を正しくするのは効用の原理ではなく、しばしば効用と衝突する道徳的な義務であると考えた。…

コミックマーケット:若者たちの大群

年に二度の江東綺景である。東京ビッグサイトに3日間で延べ60万人近くの若者が集まる。すっかり盆暮の恒例行事になっている。今年も多くの若者たちが無言で列をつくり、それぞれのコミックを求めて会場へと歩を進めていた。 整列して開場を待つ若者たち 正面…

行為と倫理について(9)

[遺伝的誤謬] 私たちがもつ信念は単に歴史的な進化の産物に過ぎないゆえに倫理的信念は真ではあり得ないと主張される場合がある。つまり、私たちの倫理的な見解は人類の歴史と人生の初期に経験する「社会化」によってつくられたに過ぎないゆえに主観主義は…

地球温暖化を止めることはできるのか

地球環境の未来について科学的に信頼できる予測がなされるとは、地球環境を解明し、部分的であれコントロールできることです。それは、私たちが地球の新しい環境に適応するか、地球を私たちに適応させるかを意味しています。地球環境を私たちに合うように積…

タイタンビカス

タイタンビカスは既に一度書いたが、アオイ科のアメリカフヨウとモミジアオイの交配種。その花はピンク色で、花径が20cmほどになる。花持ちがとても良く、6時過ぎまで咲いている。 タイタンビカスは、大変強健な宿根草。5月上旬ごろより、株元から新芽を吹き…

行為と倫理について(8)

6事実と当為、自然主義的誤謬 (naturalistic fallacy) 既に「当為」という用語が登場した。事実についての命題は「―である」という形をしているが、当為的な命題は「―べきである」という形をしており、私たちは生活の場でこれら二つの形を適宜使い分けている…

セミ、クマバチ、そしてコガネグモなど

田舎では自然に囲まれていたのに、子供の頃の私は昆虫少年とは程遠かった。ファーブルにもダーウィンにも大した関心はなかった。それでも魚類、両生類、爬虫類、昆虫、それに種々の植物が溢れるほどに豊富だったという記憶はしっかり刻み込まれている。8歳頃…

行為と倫理について(7)

20世紀の倫理思想 (1) 20世紀の倫理学はムーア(George E. Moore, 1873-1958)の『倫理学原理』(Principia Ethica, 1903)、ロス(David W. Ross, 1877-1971)の『権利と善』(The Right and the Good,1930)から始まるが、ウィトゲンシュタインの『論考』…

ヒマワリ

一面の田圃、一面の麦畑、一面のトウモロコシ畑は雄大に見えるのだが、不自然な風景でもある。人が自然を自分の都合で変えてしまったもので、眼に入る限りのトウモロコシ畑は生物多様性に真っ向から反対する事例である。ワインをつくるためのブドウ畑も同様…

行為と倫理について(6)

4倫理の説明[アリストテレスの考え] アリストテレスの倫理や道徳についての研究は主に『ニコマコス倫理学』において展開されている。彼の倫理的な研究の出発点は「幸福は何か」という問いである。倫理は人間の主要目的、最高善を見出すための試みであり、…

デュランタ

自然には紫の花が多い。デュランタもその一つで夏から秋にかけて花を咲かせる。花色は紫の小花が集まり、美しい花を咲かせるものが一般的だが、白い花を咲かせる種類もある。ギザギザのある葉っぱの先に、白や紫の小さな花を房状に咲かせる。日本へは、明治…

行為と倫理について(5)

3.4選択と決断:指令関係 私たちは部屋の状態を表象し、そこから部屋が汚いので掃除をしよう、寒いので暖房を入れようといったことを考える。掃除をする、暖房を入れるという行為を生み出すまでの思考は、心理的に得られる目的的な系列である。それは予測、…

鬼灯と柘榴

ホオズキ(鬼灯、鬼燈、酸漿)は多年草で、淡い黄色の花を6、7月頃咲かせる。この開花時期にあわせて日本各地で「ほおずき市」が開かれる。学生の頃、通学路だった浅草寺のほおずき市は何度も見た。実は熟すとオレンジ色になる。「ほおずき」は観賞用のもの…

行為と倫理について(4)

3.3付随する世界:処理関係 ここでは処理関係を考えてみよう。「処理」という言葉は情報処理の処理を考えておけばよいだろう。物理的世界の決定論は「決まる」ことについての主張であり、それに対して心の働きは「決める」ことが重要な役割を果たしている。…

鰹塚

まずは画像の見事な鰹塚をご覧あれ。何とも大きく、見事な塚である。この鰹塚が昨日書いた住吉神社の境内にある。下町の神社には色んな塚や碑が多いのだが、この塚は抜きんでて立派である。塚石は鞍馬石(高さ七尺、幅四尺)、台石は伊予青石(高さ三尺)。…

行為と倫理について(3)

3自由と決定:心的因果再考を通じて[問題の解決を目指して] ここでは自由と決定の問題に対して、今まで説明してきた幾つかの概念を使って一つの解決を試みてみよう。ただ、以下の解決はあくまで一つの例であって、決定的な解決ではないことを承知しておい…

夏祭り

我が家に近い祭りと言えば富岡八幡宮の例祭、いわゆる深川八幡祭りであるが、佃島の住吉神社の例祭も忘れるわけにはいかない。今年は8月3日から6日までの4日間で、3年に一度の本祭り。中央区の区民無形民俗文化財の『獅子頭』や八角形の神輿『八角神輿』の宮…

行為と倫理について(2)

[自由と決定の調停] 自由と決定の問題は次のように調停される場合が多い。自由とは拘束のない自由ではなく、「…からの自由」であり、ある決定論的な系列から別の決定論的系列への切り換えが自由にできることである。自由に選択できるためには一定の手続き…

コバノランタナ(小葉のランタナ)

原産地は南アメリカ。コバノランタナは匍匐性の低木で、葉の脇に散形花序(枝先に1個つずつ花がつく)を出し、小さな花をつけます。花の色は桃色、黄色、白色など様々です。ランタナと同じ仲間で、寒さにはあまり強くありません。匍匐性なので、鉢植えでは…

行為と倫理について(1)

A:不十分な証拠に基づいて何かを信じることは正しくない という主張はもっともであり、誤っているようには見えない。私たちは人間や社会について十分な知識をもっていない。だから、より十分な知識を求めようとする。そして、その知識と経験的な証拠に基づ…

マツヨイグサ

「待てど暮らせど来ぬ人を」で始まる『宵待草』は、大正浪漫を代表する画家・詩人の竹久 夢二(1884-1934)の詩歌をもとにした抒情歌。銚子での儚いひと夏の恋を歌った夢二の詩は、1912年に雑誌『少女』で発表され、バイオリニストの多 忠亮(おおの ただす…

公平な判定基準

東京医科大学の入試で男女に差のある判定が行われていたというニュースが流れ、誰もが呆れている。だが、一体何に呆れているのだろうか。男女に不当な差をつけることか。入試が不公平だということか。 かつて、「総計の誤謬」の例としてアメリカの大学入試を…