公平な判定基準

 東京医科大学の入試で男女に差のある判定が行われていたというニュースが流れ、誰もが呆れている。だが、一体何に呆れているのだろうか。男女に不当な差をつけることか。入試が不公平だということか。
 かつて、「総計の誤謬」の例としてアメリカの大学入試を挙げたことがあった。その例は、シンプソンのパラドクスと呼ばれている統計的な誤謬。カリフォルニア大学の入学試験で男女差別の疑いがもたれた。男女同数の受験者に対して、合格者は男のほうが女より多かった。男女差別の疑いがかかり裁判沙汰に及んだ。大学当局が学部ごとに調べ直してみると、二つの学部はいずれも男女の合格者数に関して全く公平であることがわかった。(下の表はこれをわかりやすくしたもので、実際の学部や学生数ではない。)

       学部1       学部2       総計
応募者  90女;10男       10女;90男    100女;100男
合格率    30%       60%
合格者  27女;3男     6女;54男    33女;57男

この表は簡単な数に直してあるが、総計を見ていただきたい。確かに男女の応募者数は同数でありながら、合格者数には差がある。しかし、学部ごとの応募者と合格者を見ると、学部1も学部2も共に応募者の男女比に合った合格者を出している。つまり、各学部は男女差別を配慮した上で合格者を出したのであるが、応募者数の違いのために総計ではあたかも男女差別があったかのような結果になったのである。総計は各部分の性質を正しく反映してくれない。このような誤謬の原因は統計の初歩の認識にある。
 上述のような統計に関する例では、男女の合格者数を同数に調節することは見逃される場合が多いが、日本人には考えられないような基準で、この例自体が不適切な例だと言う人さえいるのではないか。だが、男女平等の社会実現には男女同数の学生を確保することが必要だと考えることは誤ってはおらず、一理あるだろう。さらに、多民族国家なら各民族の人口比率に応じて合格者の民族比率を決めることも不自然、不公平ではないだろう。学費でさえ、公立学校であっても出身地に応じて違う設定にする場合がアメリカでは普通である。かつての日本では、入学試験の合否基準が公平であるのは、基準が一つだけで、それが全員に等しく適用されるというのが一般的な常識だった。これが正しい選考の仕方だというのが日本での常識だとすれば、それは国際的には非常識に過ぎないことになる。流石に今の日本でそのような常識をもつ人は少ないのではないか。
 受験生が自ら学校や学部を選択し(choose)、受験の結果選択される(select)。集団を様々につくり、集団で行動する人間にとって「選択」は肝心の本性である。その集団の性能、成果が選択基準、選択方法等を決めている。つまり、良い集団は良い選択装置をもっている。競争に打ち勝つには選択装置が不可欠で、それは学校も同じである。様々に異なる基準をもつ試験が並列し、どのようなバイアスがその基準にかかっているかが公開されているなら、不公平でない、異なる基準による試験(書類選考、AI入試、統一試験、独自の筆記試験、論文試験等々)が確保できるだろう。
 今回の東京医科大学の試験の判定基準は男性に有利になる基準で、現在の日本社会の向かうべき方向とは両立しがたいものになっていた。とはいえ、それは大学の判断であり、基準自体が誤ったものとは言えない。フェアーでなかったのは大学がその異なる基準を公表せずに隠していた点である。(基準を公表しない)企業の入社試験と同じような考えをもっていたのだろう。だが、東京医科大学の入学試験と企業の入社試験を同じように考えることはまだ日本社会だけでなく国際社会でも非常識なのである。