行為と倫理について(2)

[自由と決定の調停]
 自由と決定の問題は次のように調停される場合が多い。自由とは拘束のない自由ではなく、「…からの自由」であり、ある決定論的な系列から別の決定論的系列への切り換えが自由にできることである。自由に選択できるためには一定の手続きに従って行為しなければならない。したがって、決定論的な枠組の中でも自由の存在は保証できる。これがよく言われる調停の仕方である。だが、このような調停はあくまで見かけの調停に過ぎない。というのも、二つの決定論的な系列の間での切り換えは、それが実行される場合、やはり決定論的な過程であり、そのような切り換え過程のどこに自由が介在できるのか不明な限り、自由と決定のパズルは解決しない。
 複数の因果過程が存在し、物理的にはいずれを選択することも可能である場合を「因果的に同値」と呼んでみよう。あることを実行するのに二つ以上の可能性がある場合、いずれを選ぶにも十分な物理的エネルギーをもっているだろう。また、私たちの決断は機能的な仕組みのもとでなされることを考えるなら、それが単純な運動変化ではなく、因果的関係が機能や情報を含んでおり、それらが複数の選択という状況でこそ利用されるものであるという観点が重要になってくる。つまり、因果的に同値な状況が存在することと機能や情報の存在とが自由の背後にあるのである。
[議論の確認]
 今までの話から、決定と自由の問題は因果と自由の問題であると結論したくなる。そして、決定論、非決定論と自由の関係を論じてきたのは誤りであると思いたくなる。だが、上の議論から言えるのは、決定論と自由が両立しないなら、非決定論と自由が両立すると単純に考えてはいけないということである。というのも、決定論と自由が両立しないなら、全く同じように非決定論と自由も両立しないというのが既述の二つの図式が意味していることだからである。因果が重要だということは決定が重要でないということではない。因果が重要なのは因果的な決定が重要なのである。実際、因果的な決定と自由を巡って今までに多くの議論がなされてきた。そこで、それらの議論を見ながら、自由と決定の伝統的パズルが心的因果の問題の一形態であることを確認してみよう。

2自由と決定を巡って
[自由意志を巡る混乱]
 自由意志の存在と振舞いはどのように考えられているのか。次の自由意志についての特徴付けの例を考えてみよう。既に述べたように行為や倫理の議論では多くのことが事前に仮定され、それら仮定を認めた上での議論になっている。

1.決定論が真なら、誰も自らの行為を変えることができない。だから、誰も自らの行為に道徳的に責任をもつということができなくなる。常識では私たちは自らの行為を自らの選択によって変えることができる。
2. 私たちは欲求や惰性に打ち勝つことができる。事実も常識も、私たちが積極的に自らの行為を変えることができることを示している。
3. 私たちは行為の多くを強いられているとは感じない。決定の際、別の選択のあることを知っている。だが、決定論者はそれらが幻想に過ぎなく、私たちに働いている抵抗できない力を知らないだけであると反論する。
4. 私たちは別のように振舞うことができたはずだと後で感じることができる。これに対して決定論者は、私たちの行為は既に決まっていて、勝手に変えることはできないと主張する。
5. 決定論者が主張することから、私たちは操り人形以外のものではないことになる。だが、私たちは自分が操り人形ではないと思っている。

上の議論は典型的な水掛け論となっている。かつてジェイムズは 「決定論のディレンマ」と呼ばれる事態に対して、次のように推論した。

(1) 決定論が正しいか、非決定論が正しいかのいずれかである。
(2) 決定論が正しいか、非決定論が正しいかの理論的証明はない。
(3) 私は決定論か非決定論かのいずれかを選ばなければならない。
(4) 決定論を選ぶなら、運命論か主観論を選ばなければならない。
(5) 運命論を選ぶことはできない。
(6) 主観論を選ぶことはできない。
(7) それゆえ、私は非決定論を選ばなければならない。

彼の推論が正しいかどうかは別にして、決定と自由の関係はそのいずれかの決断をしなければならないという形で多くの人を悩ませてきた。ジェイムズと同じような推論は多岐に渡っている。自由と決定に関する歴史的な経緯がそれを実証している。カルビン(John Calvin, 1509-1564)は、神が全知全能であるから、すべてを知っており、すべては決定されているとした。だが、そのような能力をもつ神の存在はどのように証明できるのか。ニュートンの力学から、普遍的決定論のもとにすべてが法則によって支配されているという考えが出てきた。だが、人間の心は自然法則に従うのか。ダーウィンは人間も他の生物と同じように進化の結果であり、自然選択に従うと考えた。これに対しても、人間の心も自然選択に従うのかと反論できる。ヘーゲル(Georg W. F. Hegel, 1770-1831)は実在的なものは精神的なものであると考え、物理的なものはその精神的なものの実現であるとした。実現されるのは歴史的事実であり、私たちがコントロールできるものではなく、したがって、私たちに責任はなく、精神が私たちをコントロールしていると考えた。だが、神の場合と同じく絶対的な精神の存在を証明できないし、歴史は私たちに影響を与えるが、私たちの未来まで決めるだろうかといった疑問が出てくる。マルクス(Karl Marx, 1818-1883)は社会階級が私たちの社会を決め、逆ではないと考え、階級のない社会を目指した。スキナーは、私たちが環境によって完全につくられ、自由は幻想に過ぎないと考えた。これらの例だけでも、多くの思想家が自由と決定の問題に思い悩み、そこから自らの思想を生み出したことが窺えるだろう。
[自由意志に関する論証]
 先人たちが悩んできた事柄を自由と決定の関係だけに焦点を当てて、その代表的な論証を以下に挙げてみよう。

内観からの論証
私は自分の行為が自由になされると思う。
私の行為が自由になされると思うなら、それは自由である。
3.それゆえ、私は自由である。

道徳からの論証
私たちは道徳をもっている。
道徳をもつなら、私たちは自由である。
それゆえ、私たちは自由である。

科学からの論証
科学法則は私たちが何をするか決定する。
科学法則が私たちのすることを決定するなら、私たちはそれに逆らうことができない。
私たちが逆らえないなら、私たちは自由ではない。
それゆえ、私たちは自由ではない。

過去が決まっていることからの論証
私たちが自由意志をもっていれば、過去を変えることができる。
過去を変えることはできない。 
それゆえ、私たちは自由意志をもっていない。

[両立可能性]
 いずれの推論も確定的とは誰も思わないだろう。と言うのも、私たちは自分が自由に決断し、行為できると思い込み、それと同時に、自由に振舞えない場合があると感じているからである。自由を奪われ、獄につながれていても、自由に考え、自由に振舞うことは可能だと信じていながら、一方で、何も自由にできない自分に苛立っている。この両義的な自由についての信念は一体どのように正当化できるのか。このような議論の整理のために、決定と自由の関係を両立可能性(compatibility)という論理的な概念を使ってまとめてみよう。

二つの命題は両立可能である ⇔ 命題の一方の真が他方の真を排除しない

したがって、二つの命題が両立できないなら、一方の命題が真のとき、他方の命題は偽でなければならない。この概念を用いると自由意志についての私たちの考えは決定論との関係から、次の二つに分けることができる。

非両立主義:決定論が正しいならば、私たちは自由ではない。
両立主義:決定論が正しく、自由も存在する。

非両立主義に対して、両立主義の考えはわかりにくいかもしれない。それは次のように述べることができる。自由は因果的な決定性がないことを要求しないどころか、適切な形の因果的な決定性を必要とする。そうでないなら、自由はその表現の場や仕方さえままならないことになる。それぞれ自分がどのように自分の自由意志に従って行為を実行するか考えてみればよい。因果的な手続きに従わないならば、行為の成就どころか、行為そのものが実行できないことがわかるだろう。
 こうして、自由と決定に関する考えは以下のように分類できるだろう。

1非両立主義
固い決定論:非両立主義と決定論は真である。それゆえ、自由はない。
自由意志論:非両立主義が真で、私たちは自由。それゆえ、決定論は誤り。
2両立主義
柔らかい決定論:両立主義と決定論は真。そして、私たちは自由。

 

 自由と決定について議論する情報はこれである程度は揃ったと思われる。そこで、以後は自由と決定の伝統的パズルについて、これら情報を活用しながら、私たち自身で考えてみることにしよう。以下の話は自由と決定に関する少し長い論証であると考えてほしい。