「意識」の曖昧さと「第一義」の曖昧さ

 意識は「何かの」意識と補って捉えないと、「意識」だけでは茫洋としているだけで、何を指すのか正直わからない。それなのに私たちは意識という言葉を躊躇なく使い、「意識」だけで指示内容がわかったかのように考え、使ってきた。だが、実際のところ「意識」だけでは埒が明かない。意識の内容は「何かの意識」と言わない限り、特定さえできない。そして、その「何かについての意識」は意識の「志向性(intentionality)」などと大仰に呼ばれ、現象学が意識の基本的特徴として見出したものとして喧伝されてきた。だが、冷めた眼で見れば、意識という言葉が抽象的、一般的であるゆえに、「意識」だけでは何を指すのか、何を意味するのか特定できないため、「何かの」意識と付加することによって、意識という言葉が意識内容を指していることをはっきりさせる工夫だったのである。それは意識に限らず、欲求、意志も同じで、「何か」の欲求、「何か」の意志でないと私たちには欲求や意志の内容が指示されていることがわからないのである。
 私たちは何かの意識、欲求、意志として意識、欲求、意志を常に考えてきたかというと、実は違う。意識、欲求、意志を心的な機能、心的システムとして解明しようとする科学は志向的な意識、欲求、意志とは根本的に異なる仕方でそれらを捉える。大雑把な比喩を持ち出せば、志向的な意識が画像そのものであるとすれば、機能やシステムとしての意識はその画像を生み出す装置、仕組みである。だが、この単純な違いが科学と哲学の根本的な違いだなどと誇張され、そこにこそ越えがたい溝があると大袈裟に叫ばれてきた。「何かの意識」と意識システムの違いは冷静に比較すれば、何も特段に吹聴するようなものではない。一部の哲学者の悪意のこもった偏見としか言いようがない。
 意識、欲求、意志といった高階(higher order)の語彙は心に関わる語彙だけの特徴ではなく、類似の言葉遣いは心以外の領域でも容易に見出すことができる。その一例が既に議論したことがある「第一義」である。「何かの第一義」は通常「誰かの第一義」と解され、何かの意識、誰かの意識と同じような使われ方をしてきた。人はそれぞれの第一義を見出してこその人生だと言われている。第一義を見つける旅が知の習得の目的だと言われると、つい納得するのである。誰かの第一義ではなく、自らの第一義を見出せと叱咤激励され、ついその気になるのが人である。
 では、「上杉謙信の第一義」は何だったのか。彼の第一義は私の第一義ではないし、徳川家康の第一義でもない。正直のところ、誰にもよくわからない。だが、「第一義」の別の意味は仏教の基本原理のことであり、諸行無常、万物流転を指している。この「仏教の第一義」と「謙信の第一義」は違うものを指している。ところで、以前の疑問は「高田高校の校是「第一義」は一体何を意味しているのか」だった。「何かの第一義」でない限り、第一義が何を意味するのかわからない、そのため校是は曖昧模糊としたままのお化けのようなものに過ぎないことになる。
 志向的意識のように第一義を考えてみよう。すると、「何か」を「誰か」と考えるのがごく自然なことで、多くの人たちが校是の「第一義」が何を意味しているかを考える際に「人の第一義」、「高校生の第一義」、「人生の第一義」として解釈し、根本的な意義と言った捉え方がなされることになる。校是は現象学での意識のような解釈を暗黙の裡にされた上で説明されるものだから、現象学と同程度に難解で曖昧ということになる。
 基本原理や公理としての「第一義」は抽象的なな構造を表現するものとして、どこにも謎はない。意識は脳の機能であり、その具体的な仕組み、システムを指すが、第一義は基本原理を指す語彙であり、抽象的なシステムの基本を指している。
 謙信が額にした「第一義」は達磨の問答に登場する語彙であるのか、自らの「謙信の第一義」なのか、今となってはそれさえ誰にも決められないのである。その上、謙信の「第一義」だとしても、それがどのようなものか、やはりわからないのである。となれば、校是が何を主張しているかなどまったくもって不明ということになる。