「何事も謙信風に」と頭ごなしに言われたら、あなたはどうしますか?

 新潟県立高田高校は「第一義」を校是にしてきましたが、その「第一義」は何を主張しているのでしょうか。それを自分なりに考え、出した答えが「何事も謙信に倣い、謙信風に振る舞うこと」でした。でも、この答えは上杉謙信に対する篤き信仰がなければ成り立ちません。「何事も神の御心のままに」と言われても、キリスト者であれば、不平・不満をもつことはありませんし、門徒親鸞の教えをそのまま盲目的に受け入れます。信仰とはそのようなものだというのが常識です。でも、宗教を離れ、人間社会の規則や人の好き嫌いとなると事情は一変します。謙信の故郷では謙信風に振る舞うことが理想とされてきました。とはいえ、越後の人でも謙信が好きな人ばかりではなく、嫌いな人もいます。そんな人が「何事も謙信のように考え、振る舞え」と頭ごなしに命じられたら、それは、強要、無理強いだと必ずや感じる筈です。その人にとっては迷惑極まりない暴力的な命令だというのが、これまた常識です。

 「人生の第一義」は「道義に裏打ちされた生き方を貫くこと」というのが夏目漱石の主張で、彼はそれを『虞美人草』で巧みに描いてみせました。ですから、『虞美人草』を読むことによって、人生にとって最も重要なものは何かを追求した漱石の知的な軌跡を辿ることができます。一方、「謙信風、謙信流」を強要するルールは、男子生徒に丸坊主を強要する校則のようなもので、その理由は判然としません。「謙信風に」は謙信のどこを、何を見習えという具体的な指摘がなく、そのため曖昧模糊なものになっています。

 故郷のヒーロー謙信への篤き信仰がない限り、「謙信風に振る舞え」と子供たちに紋切り型で命じることができる人は少ない筈です。それができるかのように見えるのは謙信への崇敬が故郷への愛情と重なっているためです。この重なりは何とも厄介な状況であることをしっかり認識すべきなのです。故郷が越後でなければ、この重なりがなく、「謙信風」を冷静に理解できる筈です。

*「意識とは何かの意識で、それが意識の志向性である」と言えば、フッサールを思い起こす人が多いでしょうが、「第一義も何かの第一義」であり、漱石はそれを「人生の第一義」と解したのです。