行為と倫理について(3)

3自由と決定:心的因果再考を通じて
[問題の解決を目指して]
 ここでは自由と決定の問題に対して、今まで説明してきた幾つかの概念を使って一つの解決を試みてみよう。ただ、以下の解決はあくまで一つの例であって、決定的な解決ではないことを承知しておいてほしい。
 心身相互作用と言われても、心から身体へ、身体から心への関係は同じか異なるかが不明のままである。そのため、心と身体の相互作用の不思議さを解消するどころか、かえって、その不思議さを強調することになってしまっている。一挙に精妙な相互作用を解明するのは現状では望み薄であるから、現象レベルで一歩踏み込んで考えてみることにしよう。私の社会への関係と社会の私への関係が現象面では異なるように、心から身体への関係と身体から心への関係も異なると考えるのが自然だろう。そこで、身体から心への関係(前の→A)と、心から身体への関係(前の→B)を同じものとして考えるのではなく、異なる関係と考えてみよう。この仮定(M)は、

身体から心への関係は表示関係であり、それによって信念がつくられる。心から身体への関係は指令関係で、それによって欲求や動機が行為をつくり出す。信念から欲求・動機が生み出される間は心と身体は処理関係で結ばれている、

と表現できる。
 表示、処理、指令の関係を含んだ過程を全体として因果関係と見なすことで心的因果という仮説が生まれることになる。本来の因果関係は環境からの一連の物理的変化であり、行為までつながっている系列の間の関係である。Mによって、他にもう一つの心的な系列が存在することになり、二つの系列がどのように関係するかという問題が心身関係の問題と呼ばれてきたものに対応することになる。そして、心的系列は物理系列に付随し、心的系列の構成に自由という特徴が、物理的系列の構成に決定という特徴が対応していることから、自由と決定は両立するという結論が得られる。この結論を導き出す議論を二面現象論と呼び、以下に展開してみよう。先に二面現象論の概略を述べておく。
[二面現象論の骨格]

1 仮定(M)を二面現象論と呼ぶ。
2二面関係は付随関係の特別なものである。
3二面関係は次の三つの関係からなる。
A表示関係 B処理関係 C指令関係
4 処理関係から、物理(生理)過程は決定論的でも、心的過程は非決定論的であることが言える。
5 自由は心的過程で起こることの非決定性であり、物理過程で起こることは決定論的に記述される。これはシンボルの二義性、つまりは現象の二面性であり、同じ過程の二つの面である。処理過程には帰納法アブダクションが用いられ、その推理は決定論的ではない。
6 心的過程は随伴現象であるが、その意味は物理現象から見ての随伴現象である。心的過程は経験と結びついており、心的過程の否定は経験の否定である。心的過程の存在が経験されるのに対して、物理過程の存在は推論される。
7二面関係は今後因果関係として詳しく理解される可能性を残している。その意味で経験的、暫定的である。

3.1広い物理主義
 「心的な性質は物理的性質に付随する」という付随性テーゼを既に述べた。これを使うと、物理学以外で扱われるすべての性質は物理的な性質に付随することになる。ある対象が物理的であるとはその対象のある性質が物理的というのではない。その対象が魂や生命力をもっていても、その対象は他に質量や温度をもつことができる。また、その対象のすべての性質が物理的な性質というのでもない。実際、適応度や心の性質は物理的ではない。「ある対象は物理的である」は、付随性を使って言い直すと、「ある対象が物理的であるとは、その対象のすべての性質について、それが物理的でなければ、その対象の物理的な性質に付随する」ということになる。付随する性質を研究するのは科学であり、したがって、科学は物理的でない性質を研究できることになる。生物学的な性質や機能がその研究対象の代表である。だが、付随する性質は因果的な原因になれない。因果的に無力であっても、説明に関しては効力をもっている。情報、適応度、心的性質といった付随的な性質は科学的説明では物理的な性質と同程度の効力をもっている。心的内容の記述や説明は論理や言語を使って行われ、そこに含まれる概念も因果的な効力をもっていない。思考する、推論する、希望する、願うといった動詞は心的過程の記述に使われる場合もあるが、心的内容についてはもっぱらその説明に使われる。
 したがって、物理過程に付随する心的過程は物理主義に反する過程ではなく、広い物理主義の範囲内で扱うことができる過程である。

3.2特別な付随性=二面性:表示関係
 シンボルの系列は語や文がその端的な例であるが、それが指示または意味する内容と、それ自身が物理的な音や文字という二つの有様をもっている。したがって、文として表現されるものは、その内容と文の物理的な系列の二つをもつ。内容と文字の系列の関係は規約的で、相関していない場合が圧倒的に多い。

私は風邪を引いたので、学校を休んだ。
私が学校を休んだのは、風邪を引いたからだ。

二つの文はトークンとしては異なる文字系列になっているが、述べられている出来事、「私が風邪を引く」、「私が学校を休む」の因果的な関係は同じである。このような二つの系列はどうして存在することになったのか。対象とその対象が何かを表示することは言語の特徴である。数字と数、ノートの三角形と定義上の三角形も表示と対象の関係を表している。温度計や時計は表示をその本来の目的としてつくられている。自然の対象も表示機能をもっている。大雨はしばしば洪水を表示するし、太陽の位置は季節や時刻を表示できる。心の特徴としての表象はこのような表示と同じものである。表示や表象という作用をもつものが存在し、それが上述の二系列の違いを生み出すのである。これをシンボルの二面性と呼べば、表示するものとされるものの間には付随的な関係がある。
 私たちは知識の信頼可能性理論で次のような関係を類比的に考えた。

温度計の目盛の値が外界の温度を表示する⇔君の信念が心の外の世界を表示(=表象)する

温度計の機能が目盛の値によって温度を表示することであるように、心の機能の一つは信念の内容を表象することである。ここで、実現可能性を考えてみよう。温度計の場合、表示の単純な関係は次のようになる。Xは部屋の温度、Aは温度計の目盛の値である。

AがXを表示する ⇔ XがAを実現する

部屋の温度を実際に測る場合の因果系列は、部屋の環境をX’、読み取られた温度をXとすると、

X’はAを実現する
AはXを表示する

となり、X’-A-Xという実現関係が得られる。信頼できる温度計の場合、この関係は正しそうである。X’はAの原因であるが、X’はXの原因だろうか。X’はXをその一部として含んでいるだけで、原因ではない。では、心の場合はどうなるか。Aをある信念、Xを表象内容、Yを表象内容Xを含む外界の状態とすると、

YがAを実現する
AがXを表象する

という関係が得られる。温度計の場合と同じように、Y-A -Xの間の関係は因果的でない関係ということになる。