天然ものと養殖(栽培)もの:雑感

 人の見方とは勝手なもので、動物と植物では天然ものと養殖(栽培)ものについての見方が随分と違っている。実際、動物は養殖、植物は栽培と言葉遣いまで違っているのだ。だが、野生種と園芸種、天然ものと養殖ものには共通するものも多い。いずれであれ、私たちは深慮なしに野生種や天然ものが園芸種や養殖ものより価値が高いと信じ込んで生活している。
 とはいえ、魚と肉では大いに違っていて、誰も肉が「天然の肉」であることを想定さえしないのだが、魚は天然ものであることが一段と美味いと信じ切っている。
 肉や魚以上に穀物を中心とした植物は野生種と栽培の品種が区別されてきた。食肉や牛乳もそうだが、穀物や野菜は商品として扱われ、自然環境の保全生物多様性とは一線を画して扱われてきた。そして、今では人の食糧としての生物は人がコントロールできる対象となっている。むろん、100%コントロールできることに越したことはないのだが、一部しかコントロールできないものがほとんどである。米をタネから100%つくり出せるかと問われれば、まだできない。半ば天然もの、半ば養殖ものとなればウナギがその代表格の一つだろう。すべてが人工的につくれるのであれば、何も憂慮すべきことはないのだが、肝心の「命」は今のところ自然に任すしかないのである。
 僅かな一部の変更でも、生き物の形態や行動は大きく変わる。それが生み出す幻想は私たちが生き物をコントロールできるというものである。実際は全体のほんの一部を弄っただけに過ぎなくても、結果が余りに刺激的だと、つい誤解してしまうのである。命をつくることさえ可能だと思ってしまうのが、神ならぬ人の大きな特徴で、完全な知識と不完全な知識の区別ができないことが人の人たる所以なのかも知れない。
 人の欲望は不完全な知識を使って賭けに出る場合がほとんどで、それが冒険としてしばしば賞賛されるのである。人が動植物の品種改良に関わる場合、それは自然選択(natural selection)ではなく、人為選択(artificial selection)と呼ばれてきたのだが、二つの選択はいつも分離されている訳ではなく、混合型の進化が人の社会に組み込まれた動植物には当たり前のことなのである。「自然選択+人為選択」によって多くの園芸品種、ペット、穀類等がつくられ、その品種の改良が行われてきた。
 だが、所詮は不完全な「知ったかぶり」の知識しかなく、自然をコントロールすることはどこかに神頼みの予知、予見を残したままであり、このような人の自然への中途半端な介入が未来を不完全な予測しかできないものに変えている。例えば、私たちの欲望の一つである食欲は動物学、植物学を推進し、動植物についての知識を大幅に増やし、それらをコントロールしようと躍起になってきた。そして、それを助長したのが資本主義の経済システムであり、食欲は知識を生み出す原因だけでなく、政治、経済に深く関わり、当然争いをも引き起こしてきた。
 そんな大げさな話ではなくても、人の欲望を垣間見るのは簡単である。サギソウとトキソウはサギとトキに似た山野草だが、いずれも栽培品種が売られ、手軽に栽培できるようになっている。だが、山野での自然のサギソウやトキソウの盗掘が後を絶たず、いずれも準絶滅危惧種。簡単に園芸店で手に入るのに、人は自然ものを好むのである。見渡せば、山菜、マツタケ、天然物の海産物等々、似たものだらけである。その一方で、メロンもスイカも天然ものではなく、品種改良された美味いものが求められる。