行為と倫理について(11)

8進化論と倫理学の関係
 生物学と倫理の間にどのような関係を見つけることができるのか。倫理に対して進化論はどのようなことが言えるのか。スペンサー(Herbert Spencer, 1820-1903)は生物進化、社会進化、そして道徳の進化は宇宙的な進化という単一過程の一部と考える。だが、ムーアは進化的な倫理を自然主義的な誤謬とした。イギリスの道徳哲学は人間の動機の整合的な像を自分への要求や動機と他人へのそれらの間でのバランスによって生みだそうという試みであった。なぜ人間は道徳的か?なぜ道徳的でなければならないか?これらの問いに対する解答は以下のようなものだった。

(1)人間は他人のために行為するのではなく、実は自分のためである。
(2)利己的である方が利他的であるより強いが、大半は一致する。要するに、人間は利己的だが道徳的でもある。

シャフツベリー(Shaftesbury, 1671-1713)は次のような推論をしている。

誰も自分自身を傷つけたくない、あるいは他人と仲違いしたくない。
他人を傷つければ、それは自分を傷つけることである。
他人を助けることは自分に役に立つ。
それゆえ、利他と利己は一致する。

 19世紀に入って登場するのがダーウィンの倫理思想である。進化論の創始者であるダーウィンは、人間の本性も進化の結果であることから、次のような考えをもった。

道徳の基礎は社会的本能にある。
心と知能の進化は社会的本能の進化へと導かれる。
言語の発達は常識、相互の了解に基礎を置く公共的な評価の発達を促す。
習慣の形成に助けられて道徳は進化する。

 このような歴史的経緯をもとに、現代の倫理と生物学の関係を以下に考えてみよう。社会生物学者は倫理について二つの異なるクラスの問題を提起した。一つは、私たちがなぜ倫理的な言明を信じるかである。すべての人間文化において成立する倫理的な信念があれば、進化はそれらの信念がなぜ普遍的かを説明する助けになるだろう。そして、文化毎に異なる価値もまた社会生物学者によって取り上げられた。
[利己性と利他性の生物学]
 利他的な行動こそが人間に特徴的な行動であると多くの人は考える。動物の本性が利己的であるという考えは人間性の特別な価値を際立たせる効果を持っていた。進化論は適者生存に基づく理論であり、利己的な行動をとる個体がそうでない個体より一層多くの子孫を残すことが自然の掟であると理解されてきた。そのため、進化論は利己的な個体こそが生存に有利であると考える理論だと受け取られた。利他的な行動のもつ人間に特有な倫理性は規範的なものであって、事実的な進化論はそのことを扱うことができない。実際、この判断は生物的な原理から倫理性が得られないことを適者生存が図らずも物語っている、証明してくれているという結論を誘導する。そして、事実と当為の問題はこれで一件落着ということになる。というのも、人間は適者生存に倫理性を加えた次元で生活しているのであり、したがって、進化論では説明し切れない人間の尊厳が存在すると結論することによって、進化論は倫理的な考察の範囲外にあることの説明に成功したと考えることができるからである。
 多くの伝統的な倫理的行動に関する議論では、利己性は人間の生物としての本性とみなされ、利他性は人間の生物的でない本性という立場がとられてきた。このアンバランスが存在と当為、「である」と「べきである」の区別を最初から想定するというお馴染みの結果を生み出すもとになってきた。さらに、行動という観点に立つと、私たちの行動の多くは利己的とも利他的とも分類できない。それは単に私たちが自分の行動について利己的か利他的か意識していないというのではない。真理や美の追求という動機はそれだけでは利己的とも利他的とも言うことができない。そして、それらは人間の非生物的な本性に分類される場合が圧倒的に多かった。真理の追求が生物的な本性であると考える者はまずいない。しかし、不明確、あるいは理解できない動機はしばしば心の病として生物的な本性に由来すると分類されてきた。価値の高いものが非生物的な本性、価値の低いものが生物的な本性という見方が先にない限り、これは理解できない分類である。何ともアンバランスな人間についての見方としか言いようがない。このアンバランスが取り除かれるならば、倫理的な行動に関する議論は伝統的な枠組みから開放されることになるだろう。このような意味で利他的な行動の存在についての生物学的な可能性は重要な役割をもっている。利他的な行動も、利己的な行動と同じように人間の生物的な本性である、という基盤が得られるからである。
[進化論的な利他的行動とはどのようなものか]
 進化論の説明の仕方を思い出そう。自然選択は変異の存在を前提にしている。変異があるところに選択が働き、集団全体の遺伝的な分布が変化する。変異は説明されるのではなく、説明する項目である。利他的な行動についても同じで、利他的あるいは利己的な行動が既に存在し、それらがどのように集団の中に保持されていくか(あるいは、消滅していくか)を選択のメカニズムから考えようとするのが進化論である。利他主義そのものがどのように生じたか、生じるかというのではなく、それがどのように進化するかが主題である。それでは利他性や利己性が事前に想定されているという反論がすぐに考えられる。適応的な説明はこの反論に一部答えてくれる。しかし、いつでも説明のもとになる変異の存在が保証されているわけではない。また、私は人間の行動が規範性をもつことと、それが歴史的に進化することとは立派に両立できると考えている。
 私たちが日常生活の場面で遭遇する利己性や利他性は心理学的なものであり、進化論の対象ではない。私たちの経験する範囲内での利他性、利己性は、進化論によって考えられてきた利他性、利己性ではない。進化論の対象は集団の進化であり、利他性や利己性も集団的な特徴として理解されてきた。それに対して、心理学的な利他性や利己性は個人の行動についての性質である。したがって、進化論的な利他性、利己性と心理学的な利他性、利己性を同一視することはできない。
 100人ずつの二つの群があり、そこには利己的な行動をする個体と利他的な行動をする個体が存在している。利己的な個体が集団内に1しかない場合、適応度4をもつとする。その場合、残りの99は利他的な個体である。この集団に利己的な個体が増えるに連れ、その適応度は次第に減少していく。なぜなら、一人なら集団内でわがままに行動できたのが、同じ行動をする利己的な個体が増えるにしたがって、そのわがままは制限されていくからである。一方、利他的な個体の適応度は利己的な個体が増えるに連れ、やはり次第に減少する。また、この集団全体の平均適応度は利己的な個体が増えるに連れ、集団の統一が次第になくなっていくということから減少していく。これはまた、進化はいつも集団の平均適応度を高めるように働くのではないという恰好の例である。このような仮定の下で、群の集まりが存在するならば、利他的な行動のほうが利己的な行動よりは適応度が高くなる場合があり、したがって、利他性が集団内に保持され、選択的に有利であることが可能であることになる。これが利他性の存在についての基本的な考え方である。これを表にしてみると以下のようになる。

グループ1     グループ2     総計
1S; W = 4                   99S; W = 2             100S; W = 2.02
99A; w = 3                  1A; w = 1                100A; w = 2.98 

 このような結果を別の仕方でまとめてみると、次のようになる。もし、どのような部分集団においても、利己主義は利他主義よりも適応度が高く、適応度の高くない性質はその頻度が低下する、と仮定してみる。ここから、利他主義はその頻度が低下する、と結論することはできない。上の表の総計の数値(W = 2.02, w = 2.98)がこの推論の結論の反例になっているからである(Simpson’s paradox)。どのような部分集団においても頻度が低下する利他主義者は、全体ではその頻度が高くなることがあり得る。
 血縁集団は最初から所属のグループが決定している。生得的に所属が決まっているという点で、グループ固定型といってもよい。個体の適応度の代わりに血縁集団の包括的な適応度を使って、血縁集団に関する利他主義の存在を論証したのはハミルトン(William Hamilton)であった。一方、群選択のほうはウイリアムズ(George C. Williams)の還元主義的傾向の強い遺伝子選択説(geneic selectionism)の考えによって否定され、ずっと無視されてきた。群選択は血縁選択の場合と異なり、遺伝子の類似性に依存しない。生物学者の中には、血縁選択を群選択の一つと考える者も、(子育てと結びついていることから)個体の適応であると考える者もいる。利他主義の進化を握る鍵は集団の構造にある。以下の論証は、群選択、血縁選択のどれにも適用できる。
心理的な利己主義と利他主義
 進化と心理の異なる利己性、利他性は、そのような形質を担う遺伝子を想定することで一本のシナリオに纏め上げることができる。ここでドレツキの言う引き金原因と構造化原因の区別を使えば、どうなるだろうか。遺伝子は個体の行動の引き金原因になれるか。環境(あるいは刺激)と遺伝子の共同作業が行動の原因であるとすれば、遺伝子は引き起こされる行動の引き金原因の一部として働いている。そして、その同じ遺伝子はそれをもつ個体がどの程度生存し、子孫を残せるかという適応度を担うものとして、進化の場面でも働いている。これは引き金原因と構造化原因が遺伝子を介して一部重なり合っていることを示している。これは比喩的に近くの原因と遠くの原因と言い換えてもよい。そのどちらにも利己的、あるいは利他的遺伝子が顔を出すことになる。
 ある計算結果が正しいかどうかは、それを習得した学校教育のせいにする場合よりは、数そのもののしくみを使う場合が多い。しかし、それは学校教育による説明がいつも誤りということを意味してはいない。場合によっては学校教育のせいにする方が正しい場合もある。2+3=5の正当化の文脈と2+3=5の説明の文脈は異なる。近くの原因、遠くの原因はこの説明の文脈が二つ以上あることを示している。求められているのはこの説明の文脈における進化と個人の役割の解明である。進化は遠くの原因、心理は近くの原因である。遠くの原因の存在は近くの原因を無視してよいということにはならず、逆に近くの原因は遠くの原因を忘れてはならない。因果的な責任は両方にある。(因果的な責任を一部に含む倫理的な責任に関しても同じように主張できる)。正当化は知識内容の正当化であって、その知識の対象に関する正当化ではない。対象に関する正当化は説明の適切さである。知識の対象としての進化的、心理的な利己性、利他性は上の二つの説明文脈を注意深く見分けることによって、統一的に扱うことが期待できる。しかし、同時にこれは次のような厄介な問題を含んでいる。
 「氏か育ちか」を考えてみよう。氏は遠くの原因であって、その人の正当化の理由ではない。育ちは近くの原因である。実際その人となりは遠くの原因と近くの原因の混合である。では、この混合は二つの原因に分解できるか。力学の変化はその原因を局所的に分解できるが、変異の原因は分解できない。したがって、ある人をその氏と育ちに分解することはできない。これは「氏か育ちか」という問いそのものが無意味なことを意味している。実際の人為選択の問題は自然と人為の混合である。したがって、そこに自然と人為の区別ができなくなることを不可避的に想定しなければならない。心理的な利己性、利他性と進化的なそれらの間での区分ができないことは、人為選択に対して基本的な事柄である。このことをまとめると次のようになる。

進化的、心理的な利己性、利他性は概念的には独立している。
人為選択の際の利己性、利他性は心理的な性質である。
その性質が自然、人為の選択の過程を通じて進化的な利己性、利他性に影響する。
その結果、進化的、心理的な利己性と利他性は実際には互いに区別できなくなる。

この結論に一概に悲観する必要はないのかもしれない。区別は重要でないという統一的な視点を採用するなら、当然の結果であろう。