小中生ではなく、大人のための哲学(4)
適応主義
(適応主義批判)
1979年に中立説-選択説の論争以上に多くの人の関心を引いた論争が起こりました。グールドとルイントンは自然選択一辺倒の説明に対する辛辣な批判論文を書いたのです。それが“The Spandrels of San Marco and the Panglossian Paradigm: A Critique of the Adaptationist Programme” (Gould and Lewontin, 1979)です。既に述べてきたように、自然選択は集団に有利な変異の蓄積をもたらします。ダーウィンによれば、長い期間に渡っての集団内の有利な変異の蓄積は有機体を互いに対してだけでなく、その環境にも適応するようにします。ですから、自然選択は私たちが自然のなかで観察できる適応に対して説明を与えることができます。つまり、選択が働いたシナリオがわかれば、適応した形態や行動の説明ができます。これは誤っていませんが、すべての形態や行動が適応である訳ではありません。でも、そのように考える研究者が多く、それが彼らの批判の的になったのです。彼らは、いわゆる「適応主義者」が進化のメカニズムとして自然選択にばかり関心を寄せるだけでなく、自然界があたかもうまく適応しているかのように見てしまうと非難するのです。さらに、彼らによれば、適応主義者は特定の形質の適応的な役割がうまく説明できないとき、別の適応主義的な話を捏造してしまうか、有機体の環境を十分に理解していないことに説明できない理由があると考えてしまうのです。次から次へと自然選択に頼った別の適応のシナリオを考え続けるのではなく、選択だけではない浮動を含む、別の可能な進化要因を考えるべきだというのが彼らの主張です。例えば、人間のあごは、選択が働いた結果、獲得された形質というより、発生上の制約からくる副産物なのです。
また、ある形質はかつて特定の機能のために選択されたのですが、その形質はもはやその機能を果たさなくなってしまった場合があります。例えば、鳥の羽は温度調節を助けるために進化したと信じられていますが、今では羽は翼として飛ぶという異なる機能をもつようになっています。結局、進化の多くは適応的ではないのです。これが彼らの主張です。では、この批判の対象になっている適応主義とは一体どのような考えなのでしょうか。
(適応主義とは何か)
適応主義とは自然選択の力に関するテーゼです。生命の樹という進化の事実について疑念をもたない人でも、進化のメカニズムについては疑いをもつ場合があります。上述の論争が何であるかを理解するために簡単な選択過程のモデルを考えましょう。ウサギの集団の中に足の速いものと遅いものがいるとします。足の速いものが遅いものに打ち勝ち、最終的には足の速い形質が集団に固定するとします。簡単のためにウサギは単性生殖し、速さは他の形質とは独立に進化するとしましょう。更に、突然変異も遺伝的浮動も何ら効果を及ぼさないとします。
これらの仮定は明らかに誤りです。実際の世界には仮定以上の複雑な事柄が含まれています。もしモデルを現実的なものに近づけていったならどのようになるでしょうか。もしより現実的なモデルをつくっていくなら、「足の速いという形質が集団に固定する」という結論は何か影響を被ることになるのでしょうか。適応主義者の答は影響がないというものです。彼らによれば、自然選択は集団の進化を決定する極めて強い決定因子なので、それ以外のものは無視しても大丈夫なのです。もし単純なモデルで足の速い形質が100%になるなら、より複雑で現実的なモデルでも同じような結論が得られます。自然選択についてのモデルがあれば、他は考慮しなくとも構わないというのが適応主義者の答です。
ある集団Xの個体がある形質Tをなぜもつかを説明する場合、自然選択がどのように関係しているかについて、次の三つのテーゼを区別することができます。
(U)自然選択はXに至る系統の中でTの進化にある役割を演じてきた。
(I)自然選択はXに至る系統の中でTの進化に重要な役割を演じてきた。
(O)自然選択はXに至る系統の中でTの進化に唯一の重要な役割を演じてきた。
これらのテーゼは論理的な内容の強さの順に並んでいます。(I)は(U)を帰結しますが、逆は成立しません。(O)は(I)を帰結しますが、逆は成立しません。(O)が真なら、形質進化の説明は自然選択を無視することができません。(I)が真なら、形質の説明に非選択的な要因を無視しても構いません。(U)が真でも、選択以外の進化の要因が働いた可能性を否定できません。適応主義の主張はこの(O)に近いものです。自然選択にだけ焦点を当て、他の要因を無視するモデルが十分な説明になっていると考えるのが適応主義です。
適応主義が何を意味しているかをより一般的な文脈で考えてみましょう。適応主義者は通常彼らのテーゼを表現型の特徴に限定します。彼らはしばしば分子レベルの特徴については(O)や(I)が誤まっていることを認めます(中立説の主張を思い出してみましょう)。これから、適応主義を次のように表現することができます。
適応主義:集団の大半の表現型レベルの形質は、自然選択だけを考慮し、非選択的な要因が無視されたモデルによって説明することができる。
これは(O)の一般化です。(U)や(I)についても類似の一般化は可能です。(U)の一般形式は、自然選択は他の進化要因と同じように、いたるところにあると主張しています。(I)の一般化は、自然選択は表現型の進化の重要な原因の一つであると述べています。ですから、(I)が真であれば、自然選択を無視するのは誤まりということになります。適応主義に関する論争は(O)の一般化に関してのものです。適応主義をさらに強い形で考えると、自然選択ですべての表現型レベルの形質を十分説明できるという主張になります。
ところで、適応とは何だったでしょうか。適応の標準的な理解によれば、それは「歴史的な」概念でした。ある形質が適応であるとはそれが選択の産物である場合であり、かつその場合に限られていました。この標準的見解は適応の歴史的でない概念とは相容れません。歴史的でない、工学的な適応の理解では、形質が適応であるとはそれをもつ有機体に現在利益を与える場合です。標準的な見解では、「適応(adaptation)」という用語が歴史的意味で使われ、「適応的(adaptive)」や「適応性(adaptedness)」が歴史的でない意味として使われます。歴史的見解をとるグールドらは「適応」という語を選択された機能を現在も有している形質に制限し、選択された機能以外の機能を果たしている形質を外適応(exaptation)と呼んでいいます。既述の鳥の羽はこの例です。
多くの哲学者や生物学者はグールドとルイントンが適応主義プログラムに対する決定的な批判を行ったと考えますが、適応主義を擁護する人もいます。グールドらの批判はポパーの反証主義に基づいていると考える人もいます。多くの誤解も見られ、適応主義がすべての形質が適応であると主張すると信じられたり、反適応主義者はすべての形質が非適応的だと主張すると考えられています。既に適応主義の論争が(O)やその一般化に関するものだと述べました。ここで適応の定義を思い出してみましょう。(O)と並べて書いてみると下のようになります。
(O)自然選択はXに至る系統の中でTの進化に唯一の重要な役割を演じてきた。
特徴cは集団において仕事tをするための適応である
⇔
特徴cをもつための選択が祖先に存在し、それが仕事tを実行することによって祖先の適応度を高めたゆえに、集団のメンバーが現在cをもっている。
(O)が成立していると、適応の定義項が満たされることから、形質Tは適応です。適応は定義上選択によって生み出されるものですから、過去の選択と適応は同じ意味となり、選択は適応の経験的な説明ではないことになります。したがって、適応主義の論争は(O)がどの程度正しいかという問題となります。これは経験的で生物学的な論争です。確かに哲学者はこのような経験的論争を分析して何が問題かを明らかにできます(これは中立説に関する論争でも全く同じです)。しかし、最終的にはそれは経験的な問いであり、哲学者が口を差し挟むことではありません。
適応主義の論争は他の哲学的論争を引き起こしてきました。例えば、適応主義プログラムの所産の一つが社会生物学です。これは自然選択説を動物行動、そして人間行動に適用したものです(古典的テキストはE.O. Wilson, Sociobiology, 1975)。 そのため、社会生物学では(物理的特徴だけではない)多くの人間行動が祖先の生存能力を高めた適応として説明できると考えられています。ウイルソンは利他主義を社会生物学の中心問題と考えました。自然選択を通じて行動を説明しようとする理論は、自らの適応度を犠牲にして他人の適応度を高めるように見える行動が進化できたのはどのようにしてかを説明しなければなりません。
社会生物学を巡る論争の幾つかは適応主義の論争と呼応しています。批判者はパングロス的な、テストできないお話づくりに過ぎないと論じますし、擁護者はこの文脈でのポッパー的な基準が十分でないと主張します。社会生物学は遺伝的決定論に陥っているという点でも批判されます。遺伝的決定論とは私たちが遺伝子によって完全に決定され、環境や文化の影響はほとんどないという見解です。この批判は極端な社会生物学には当てはまりますが、穏当な立場は遺伝的要因同様、非遺伝的な要因も認めています。勿論、このような反応はそれぞれの要因にどのくらい私たちが影響を受けるかという答えにくい問いを生み出します。
最後に
ここでは生物学の哲学として進化論の基本的な問題の幾つかを考えてきました。集団遺伝学の中で自然選択と遺伝的浮動がどのように形式化されるかを説明し、それに伴って表面化した問題の幾つかを扱いました。進化論が因果的な説明を目指し、理論としては確率・統計的な性格をもつこと、そして、適応度や選択の単位、適応概念について問題点を挙げました。
分子生物学や社会生物学が社会にもたらす問題が扱われていないことに不満をもつ読者がいるでしょう。それらの問題が重要でないから論じなかったのではありません。それらの問題はここで扱われた基本的な事柄を理解した上で論じるべきだと考えたからです。
基本的文献
Darwin, C. (1859): On the Origin of Species, The Origin of Species by Means of Natural Selection, or The Preservation of Favoured Races in the Struggle for Life, 1859. 初版本を読む必要はないので、手に入りやすい本(翻訳でもよい)を読めばよい。
標準的な進化論の教科書
Bell, G. (1997): The Basics of Selection, Chapman & Hall.
Futuyma, D. (1986): Evolutionary Biology, Sinauer.(『進化生物学』蒼樹書房)
Maynard Smith, J. (1977): The Theory of Evolution, Penguin.
Ridley, M. (1996): Evolution, 2nd ed. Blackwell.
Stanley, S. (1979): Macroevolution: Pattern and Process, W. H. Freeman.
Wiley, E. (1981): Phylogenetics: The Theory and Practice of Phylogenetic Systematics, John Wiley.
標準的な哲学の文献(生物哲学)
Dawkins, R. (1976) The Selfish Gene, Oxford U. P.(『利己的遺伝子』紀伊国屋書店)
Hull, D. (1974): Philosophy of Biological Sciences, Prentice-Hall.
Lloyd, E. (1988): The Structure and Confirmation of Evolutionary Theory, Greenwood.
Rosenberg, A. (1985): The Structure of Biological Science, Cambridge U. P.
Sober, E. (1993): Philosophy of Biology, Oxford U. P.
Sober, E and D. S. Wilson (1998): Unto Others, Harvard U. P.
Sterelny, K. and Paul E. Griffiths (1999): Sex and Death, The University of Chicago P.
Williams, G. C. (1966): Adaptation and Natural Selection, Princeton U. P.
関連する領域とその知識(物理学、統計学、遺伝学、発生学等)
力学、統計学、ゲーム理論、そして勿論遺伝学や発生学が順次必要となる。特に、忘れてならないのは、集団遺伝学である。このテキストも必要である。
練習問題
1進化が事実である証拠を挙げた上で、歴史的な事実が推論の結果であることを説明せよ。
2進化論における集団概念を説明せよ。
3自然選択と遺伝的浮動の違いをまとめよ。
4自然選択と適応の関係を説明せよ。
5遺伝的浮動が進化の要因であることを説明せよ。
6「いかに」と「なぜ」の問いの違いについて説明せよ。
7選択の単位に関する考えをまとめよ。
8集団遺伝学で使われる確率概念を説明せよ。