行為と倫理について(10)

20世紀の倫理思想(2)
(1) David Ross, The Right and the Good(1930)
 ロスの本はムーアの『倫理学原理』の功利主義への反対として書かれた。ロスは正しい行為を正しくするのは効用の原理ではなく、しばしば効用と衝突する道徳的な義務であると考えた。私たちは結果に基づかない義務をもっている。適応結果ではなく、適応の正しさに基づいて行為する。それらはカント的な義務であり、普遍的で義務的である。
 私たちはカントの道徳理論については何も述べてこなかった。そこで、日本の倫理学に深い影響を与え、今でも根強い信奉者の多いカントの道徳理論を見てみよう。カントが否定したかったのはヒュームの考えである。ヒュームは行為が理性だけからは導き出せなく、理性的でないものを必要とすると考えた。ヒュームによれば、行為を生み出す欲求は理性からは出てこない。理性は生み出された行為を導く道具に過ぎない。カントはこの考えを拒絶し、道徳の規則は定言命法(categorical imperatives)であると考えた。次の仮言的な表現を例に考えてみよう。

健康を守りたいなら、喫煙を止めるべきである。

理性は上の表現のように仮言的なことしか言えないとヒュームは考えた。だが、カントは道徳規則を定言的で、命令的と考えた。定言的な文は「…である」、命令的な文は「…せよ」という形をしているから、定言的かつ命令的な文は「Xをするな」という形をしている表現である。このような形式をもった道徳規則は私たちが欲する、望むか否かと関係なく私たちがしなければならないことを述べている。ニュートンの運動法則は惑星がどう運動すべきかを述べていない。道徳規則は人がどう振舞うべきか述べている。だが、共に普遍的である点では一致している。定言命法は私たちの意志を方向づける命令の集合である。それらは無条件にすべての人に適用される。それが定言的なのは、すべての理性的な人に適用されるからであり、命令的なのはそのように行為しなければならない原理だからである。
 カントは結果主義を拒絶する。(欲求ではなく)理性によって、何が正しく、何が悪いことかが決定される。道徳的行為は普遍化可能な原理を具体化している。彼は道徳的行為については普遍化可能だが、道徳的でない行為は普遍化できないと考えた。理性だけでは科学法則が真であることを告げることができないが、何が正しいことかは普遍化可能性の理性的要請から述べることができる。人は彼ら自身が目的である。
 カントの認識論がどのようなものか既に述べた。そこでは心が経験をどのように総合するかを分類したカテゴリーを通じて世界が構成された。それと同じように道徳的なカテゴリーも普遍的である。それらの条件はアプリオリで、善なる行為を導くものである。
 カントの倫理学は人間としての責任に基づいている。道徳的な義務を遂行する際の理性の能力は卓越したものである。道徳は理性的な存在が何を意味しているかの形式的な定義に過ぎないから、その存在の自覚が道徳的な規則の十分な証明となっている。人間は人間であるがゆえに義務に縛られている。

(2)John Rawls,『正義論』(A Theory of Justice(1971))
 ロールズの仕事は倫理というより、その一部である「正義」に関してのものである。しかし、その広範な見解は倫理的な研究に多大な影響を与えた。正義論は正義に関する二つの基本的原理の適用を巡って展開される。この二つの原理によって正義と道徳が可能な社会が保証される。

(第一原理)
各人はすべての自由なシステムと両立可能な、平等な基本的自由をもつ最も広範なシステム全体に対して平等の権利をもつべきである。
(第二原理)
社会的、そして経済的不平等はともに調整され、最小の有利さしかもたない者が最大の利益を得、機会が公平かつ平等に与えられるという条件の下で自由に地位を得ることができるようにされるべきである。

 ロールズにとっての問題は二つの原理がどのように普遍的に採用されるかを示すことである。そこで、彼は社会というゲームの中のプレイヤーはみな「原初的位置(original position)と呼ばれる状況に置かれているとする、理論的な無知のベール(veil of ignorance)を導入する。生活と社会の事実についての一般的な知識しかもたないで、各プレイヤーは彼らが係ることになる社会状況の種類に関する合理的に分別のある選択をすることになる。プレイヤーが彼ら自身について特別の情報をもつことを否定することによって、道徳的な観点によく似た一般的観点を採用しなければならないことになる。ロールズによれば、分別ある立場を放棄せずに、また、各自の分別ある推理を遂行することが道徳的であるということを措定することなく、道徳的な条件は達成される。

7倫理における規約
 科学的な観察とそれをもとにした説明は科学の重要部分を占めている。科学における観察と説明は20世紀に入り多くの特徴がわかってきた。実験や観察はその再現性や測定の精度について、また、理論は予測能力について、科学の哲学において現在でも多くの研究が行われている。これに対し、倫理の観察や説明はどうであろうか。事実と当為の区別以外でも、科学と倫理が異なる点を考えることができる。
 6人の患者がいて、1人は重体であるとしてみよう。重体患者の臓器を移植して5人を救うか、それとも1人の重体患者を救うかという質問にどのように答えたらよいのか。このような質問はばかげていると思う人がほとんどではないか。だが、6個の製品があって、1個は不良品である場合、その1個の部品を使って残りの5個の製品の弱った部品と交換することに誰も疑問をもたないだろう。1個の不良品を分解し、各部品を使うことはむしろ当たり前のことと考えられている。
 科学法則の正しさは実験で確かめられる。しかし、倫理の場合は思考実験でしか確かめることができない。科学上の観察はその背後にある理論に依存している。理論の基本的な仮定を受け入れた上で観察する場合、その仮定そのものは観察によって確かめることはできない。これが理論負荷的(theory laden)と呼ばれる考えで、既に科学理論の相対性に関連して述べた。これは倫理に関しても言える。科学理論以上に、倫理的な観察結果はどのような倫理的仮定によって支えられているかで変わってくる。つまり、倫理の観察は客観性を含意しないのである。すると、倫理的な言明は相対的でしかないということになる。では、二つの考え、つまり、倫理は相対的という主観論とそうでないとする実在論はどちらが正しいといえるのだろうか。
 まず、相対主義から考えてみよう。倫理の相対性が端的に見られるのは規約主義においてである。規約主義には次の三つのスタイルがある。

神による命令説:神が定めたゆえにある行為は正しい、あるいは誤っている。
倫理的相対主義:社会が採用する規範によって、その社会で行なわれる行為が正しいかどうかが判定される。
実存主義:その人の行為が正しいかどうかはその人が自らつくった倫理的基準によって決められる。

これら三つのスタイルに共通するのは、誰かがつくった倫理的な基準に従って、ある行為が正しいか誤りかが決定される点である。
 ここで二つの規約主義を区別しておこう。一つは意味論的な規約主義、他は実質的な規約主義である。次の二つの文を考えてみよう。

私たちが言葉を違ったように用いたなら、「花」という語はある動物に対する名前かもしれない。
私たちが言葉を違ったように用いたなら、花は動物であるかもしれない。

最初の文は意味論的なもので、明らかに正しい。だが、二番目はまったくの誤りである。既に述べたポアンカレの規約主義は実質的な規約主義であった。そして、倫理の規約主義も意味論的なものではなく、実質的な規約主義である。倫理の規約主義は倫理的命題が他の命題とは違っており、誰かの意見にその真理が依存していることを主張している。そして、その誰かは神、社会、そして各個人と異なっているのである。誰かの命令は義務を伴い、

神のXをすることの命令 ⇔ Xは義務である

という形で、規約が義務に結びつくようになっている。倫理的な相対主義はこのような規約主義の一形態である。