大鹿庚申堂あるいは安宮神社の例大祭

 「妙高市関山の原通地区で栽培された酒造好適米「越淡麗」を用い、仕込み水には大鹿庚申堂清水を使っています。」という説明に登場する大鹿の庚申堂は信州(現長野県筑北村)にある修那羅山安宮神社の分社で、そこから宮司が来られ、10月末に例大祭が行われました(その様子は安宮神社Facebookを参照)。

 有名になった清水近くの鳥居の脇にある標柱には「安宮神社参道入り口」と記されています。庚申堂は庚申信仰に基づいて建立された仏堂ですが、大鹿庚申堂の境内からは清水が湧出しています。それがわかりやすくまとめられているのが「妙高かるた」。旧妙高村周辺の歴史や自然をかるたとして子供用にまとめたものです。かるたの札は「お」で、「大鹿出身 神様になった しょならさん」とあり、「筆神楽」と呼ばれる占いなどを使って信州の人々を助けた「しょならさん」のことが説明されています。説明文は「修那羅さん:大鹿に「安宮神社祭神誕生の地」と称する里宮がある。修那羅大天武は江戸時代の寛政7年(1795)に大鹿で生まれ、9才頃に家を出て全国各地を修業し、霊験を得て安宮神社の祭神となった。…(省略)」とされています。

 大鹿庚申堂は「安宮神社」とも呼ばれていて、修験道庚申信仰が結びついていたことが窺えるのですが、上記のように修那羅山安宮神社から分祀された神社です。

道教の教えによれば、人間の体の中には生まれた時から三尸(さんし)という虫が住んでいて、三尸虫は宿主が死ぬと身体を抜け出し、天に帰ることから、庚申の日には寝ている間に三尸虫がはい出して、天帝に宿主の悪行を報告し、宿主の寿命を縮めるように頼みます。そこで、その夜人々は眠らずに集まり、夜通しで庚申講を行いました。

 庚申信仰平安時代に貴族社会で広く流行し、鎌倉時代から室町時代には上層武士階級にも広がっていました。15世紀頃には仏教と結びつき、江戸時代には仏教式の庚申講が広く行われるようになりました。

 庚申信仰修験道とも深く関わり、その秘法の一つが「青面金剛法」で、悪魔を退け、病気を取り除くことを目的にしていました。また、全国の庚申堂の堂守には山伏がなっていました。寅さんで有名な柴又帝釈天庚申信仰の関係も深く、題経寺の縁日は庚申の日です。

*修那羅大天武

 修那羅峠(しゅなら峠、しょなら峠)は長野県小県郡青木村田沢と東筑摩郡筑北村坂井の境にある峠で、かつては「安坂峠」と呼ばれていました。でも、修那羅大天武が広く庶民に信仰されるようになって、修那羅様への参道として、「修那羅峠」と呼ばれるようになりました。その峠に地元の人が「ショナラさま」と呼ぶ「修那羅山安宮(やすみや)神社」があります。修那羅大天武という修験行者が江戸時代末期の安政年間に、土地の人に請われ、雨乞いの法を修して信頼を得て、古くから鎮座する大国主命の社殿を修し、安宮神社の開祖となります。修那羅大天武は全国の霊場を巡って約60年修行し、この地で弟子たちとともに更なる修行を積み、人々の信仰を集めました。没後は地域の人々に偲ばれ、彼を開祖とする現在の神社が生まれました。

 修那羅大天武は1795(寛政7)年、現在の新潟県妙高市大鹿に生まれました。本名は望月留次郎。1882(明治5)年に現在の長野市篠ノ井で78年間の生涯を閉じました。9歳で天狗に従って家を出て、名山・神社仏閣を巡って修行を重ね、この間に学問は豊前坊という岳天狗に習い、越後の三尺坊からは不動三味の法力を授けられて、霊験を身につけました。信濃の地で人々を助け、各地から人々が集まることになりました。