福沢諭吉から渋沢栄一へと一万円札の肖像が変わり、新札が出始めた。千円札の肖像は北里柴三郎。そこで、福澤と北里を巡る私的肖像を描いてみたい。
緒方洪庵は幕末に活躍した蘭学者。蘭学だけでなく、蘭方医としても仰がれる存在。フーフェラントの内科学『扶氏経験遺訓』を翻訳し、幕末にコレラが猛威を奮った際も、予防に尽力した。洪庵が開いたのが大坂の適塾。1838（天保9）年に開塾し、1862（文久2）年までは洪庵自身が直接に教育した。塾生たちは全国各地から集まり、その塾生の一人が福澤諭吉、その他に橋本左内、大村益次郎、長与専斎などがいた。明治政府による教育制度の整備とともに適塾は役目を全うし、適塾出身者らを中心に創立された大阪医学校は大阪大学医学部へと発展する。
さて、北里柴三郎は1852 年肥後熊本の庄屋の子として生まれ、藩校「時習館」から東京医学校（現東京大学医学部）に入学。その後、内務省に入り、ドイツへ国費留学。細菌学の世界的権威コッホに学び、破傷風菌を人工培養し、発症させると、免疫が生じることを発見。この免疫を使い、治療に応用したのが、血清治療。この研究は第1回ノーベル賞を獲得した大発見だったが、受賞したのはこの研究を一緒に行ったベーリングだけ。
帰国後、福澤諭吉の支援で、慶應義塾大学横の芝公園に土地と建物を譲り受け、伝染病研究所を設立した。北里が所長を務めていた伝染病研究所は赤痢菌を発見した志賀潔、黄熱病の研究で知られる細菌学者の野口英世など、優れた人材を輩出した。
北里のドイツ留学前の細菌学の師が緒方正規（当時東大医学部講師）だった。北里と緒方は共に熊本の出身。緒方は北里が留学した年に「脚気菌」を発見したと発表したが、留学中の北里は「脚気とは無関係である」という論文を発表する。脚気はビタミンB1の不足で起こる病気で、北里の方が正しいのだが、弟子の北里が師である緒方に逆らったということから、東大では忘恩の輩と捉えられ、森鴎外も北里を非難する論文を発表している。東大の脚気菌派の人々は、この後も「脚気薗」説を主張し続け、脚気治療薬としてビタミンを世界最初に発見した東大農学部教授の鈴木梅太郎を批判し、彼のノーベル賞受賞のチャンスも潰してしまう。
そこで、内務省は適塾の塾生仲間だった長与専斎を介し、福澤諭吉に助けを求めた。福澤が自分の所有地を提供し、研究所を建設した理由はこれである。北里が帰国した1892年暮れのことで、福澤の友人森村市左衛門が研究設備や機器の購入代金を寄付した。こうして、日本初の伝染病研究所は民間の力によってスタートする。北里のペスト菌発見という業績は世界各国で絶賛されるが、日本では北里が発見したのはペスト菌ではないと非難する論文が次々と発表される。森鵬外もその中の一人。鴎外は軍医としてドイツで学び、陸軍の軍医総監という最高位を極めたが、ペスト菌否定だけでなく、脚気の細菌説にもこだわり、日清戦争と日露戦争において脚気の予防に役立つ麦飯の支給を拒み、日露戦争では25万の将兵が脚気を発症し、3万近い死者が出た。
1914年、北里の伝染病研究所は突然東大に組み込まれるが、北里以下所員全員は辞表を叩きつけ、伝染病研究所を去ることになる。
＊二塚信、巻頭言「北里柴三郎と緒方正規のこと」『民族衛生』第69巻、第1号、2003，69（1）1－1
＊中瀬安清「北里柴三郎によるペスト菌発見とその周辺－ペスト菌発見百年に因んで－」『日本細菌学雑誌』、50（3）、1995、637－650
＊上記のように、内務省は国立の伝染病研究所を設立する準備を進めていたが、既述の「脚気菌」騒動があり、北里の上司だった長与専斎は福澤に相談。福澤は私立の伝染病研究所の設立と援助を約束し、同年に伝染病研究所が設立された。この時、福澤諭吉57歳、北里柴三郎40歳。二人の親交はそれ以来続くことになる。福澤の死後、慶應義塾は創立60年を期して、北里の協力のもとに大学部に医学科新設を計画。北里は1917年に開設された医学科の学科長（後の医学部長）に迎えられ、1928（昭和3）年まで医学部長を務め、その後も顧問として、医学部を支えた。1937年には医学部に北里記念医学図書館が誕生。その図書館の入口には北里の胸像がある。
