老人にとっての「疫病」、「伝染病」、そして「感染症」

 老人の私にとって「疫病(えきびょう)」は恐怖の病で、逃れることができない自然災難の一つであり、「伝染病」は子供の頃に学校で習った予防注射が必要な怖い病気で、赤痢、ペスト、コレラなどは途轍もなく恐ろしいものと習った。だが、今のコロナ以前には「感染症」という語彙に恐怖感はなく、色んな病気の中の一つと信じていた。今になって、色々調べても、これらの術語の意味の違いは定かではなく、どう見ても人為的な言葉遣いの違いに過ぎず、明確な意味の違いがある訳ではなさそうだというのが老人のとりあえずの結論である。

 老人のいい加減な結論を離れて、少々教科書的におさらいをするなら、「感染」は病原体が体内に入ることであり、「伝染」は病原菌によって病気がうつることである。そして、「感染症」は病原微生物が原因で起こる病気のこと。法律上の感染症は7つに分類され、定義されている。そして、法律上の伝染病はもっぱら家畜に用いられている。「疫病」は医学や疾病(しっぺい)の歴史記述の中にもっぱら登場し、今風に言えば、感染症の大流行(パンデミック)を意味しているように思われる。

 感染と伝染の違いにこだわるならば、微生物が体内に侵入し、体内で増えて身体の中に居つづけることが「感染」であり、下痢や発熱などの症状が現れてくると「感染症」にかかったことになる。その感染症の中で、ヒトからヒトへ、あるいは動物からヒトへうつり広がるものが「伝染病」。食中毒やMRSAなどは 人から人にうつることはないので、感染症だが、伝染病ではない。これに対してインフルエンザやSARS、そして新型コロナウイルス感染症はヒトからヒトにうつるので、伝染病である。こんな風にまとめてみても、何かが明らかになる訳ではない。昔から使ってきた語彙が時代を反映し、意味が生活に密着して変えられてきたことが浮き彫りになってくるだけで、歴史こそが言葉の意味を変容させてきたことを実感するだけである。

​ 過去に多くの感染症被害の記録が残されているが、二つだけ挙げてみよう。まずは、既に『日本書紀』に奈良時代天然痘らしき症例が発生していたという記述がある。735年から738年にかけて、西日本で「天平の疫病大流行」が引き起こされ、藤原四兄弟が罹患したとある。この大流行が起こった天平期の日本人口は490万人から750万人で、前時代に比べ飛躍的に増加し、文明の発展が感染症の被害を拡大させた。遣唐使が持ち込んだとされる天然痘による死者は、100万人とも150万人とも言われ、人口の20%が感染症により亡くなっている。
 平安時代に入ると、今度は麻疹が蔓延した。麻疹は罹患者の死亡率が高く、人々から恐れられた。当時は治療できる医療技術はなく、国家事業として薬師寺を建立、疫病退散を願って加持祈祷を行うしかなかった。

 次は、幕末。日本で初めて官制病院が設置されたのは1722年。それが小石川養生所。杉田玄白の解体新書が出される50年前のことで、この病院が江戸の公衆衛生や防疫に中心的な役割を担っていた。安政5(1858)年、突如として日本を襲った第三次コレラパンデミックは、異人とともに長崎に上陸。黒船の来航より5年後のことで、江戸幕府大老井伊直弼主導によって黒船の外圧を凌ごうとした。そこに更なる外敵としてコレラが襲来したのである。コレラは人々の間で「即死病」と恐れられ、1日コロリ、3日コロリとして恐れられた。