不安と病気:ダーウィンの場合

ダーウィンの不安>

 ダーウィンは『種の起源』を著して従来の世界観を根底から覆しました。そのダーウィンは若い時から自分でもよくわからない不安に苛まれていました。今の医学的知見から見ると、ダーウィンの病気は「パニック障害」ではなかったのかと推察できます。チャールズ・ダーウィンは父ロバート・ダーウィン、母スザンナ・ウエッジウッドのもとに、1809年イギリス中部のシュルーズベリーで生まれました。祖父も父も医師、母の実家はあのウエッジウッドの製造元。ケンブリッジ大学を卒業後、22歳の時、ビーグル号で世界一周の旅に出かけ、植物学、動物学、地質学の観察と標本採集を行いました(『ビーグル号航海記』はその学術探検の記録)。

 ダーウィンの病気はパニック障害の症状によく似ています。その初めの症状が出航時に出ています。ビーグル号は出発を前に2ヶ月間もプリマス港に足止めされ、12月にやっと外洋に出ることができました。ダーウィンの自伝によれば、この間もう二度と生きて帰れないのではないかと不安に襲われ、心臓のあたりに針で刺すような痛みを感じたと述べています。ダーウィンの胸痛は航海中も再発することはありませんでしたが、港を出ると船酔いに苦しみ、船酔いは5年に延びた旅行中ずっと続きました。

 帰国後2年経ち、学者として仕事を始めた頃から、ダーウィンは病気がちとなり、ロンドンの雑踏や環境に耐えられなくなります。彼はめまいや吐き気に悩まされました。長男ウィリアム・エラズマスが生まれる少し前から健康状態は一段と悪化し、とくに、パーティなどに出席した後の疲労が激しく、動悸、めまい、吐き気、嘔吐、からだのふるえが起こっていました。33歳になったダーウィンはロンドンを離れ、イギリス南東部のダウン村に引っ越します。引っ越した当初は身体の具合がよくなりますが、彼の健康状態はまた下り坂となっていきます。ダーウィンの病気は悪化と軽快を繰り返す慢性病で、他人の眼からみると、たいした病気には見えません。父に似て長身、すこし猫背でしたが、がっちりした体格、血色がよく、快活な態度、こういった彼の外見は病身とはほど遠く、彼の病苦を察した人は多くありませんでした。

 このように見てくると、病気の症状、発症年齢、慢性の経過、はっきりした病気の症状を説明する身体的な異常のないことなどから、ダーウィンパニック障害にかかっていた可能性を強く示唆しています。

ダーウィンの病気>

 既述のように、ダーウィンは何度も激しい腹痛に襲われ、ひどいときは食事のたびに嘔吐を繰り返していました。当時、イギリスの名だたる医師たちがダーウィンを診断しました。乳糖不耐症、鉛中毒、心気症、統合失調症などの病名が挙げられましたが、病気を治すことはできませんでした。

 このダーウィンの病気について、現代医学の見地から再検証を行ったトーマス・ジェファーソン大学医学部の胃腸専門医コーエンは「(ダーウィンの)生活の歴史を見ると、(彼の症状を)単一の病気に還元することはできない。彼が複数の病気にかかっていたと考えている」と述べ、ダーウィンがピロリ菌などの病原体に感染していた可能性を指摘しています。ダーウィンの病気についての再検証がメリーランド大学で開催される歴史上の人物の未解決の病気に関する会合で行われました。この会合では過去に、アメンホテプ4世が遺伝性女性化乳房症(アロマターゼ過剰症)であったことや、コロンブスが晩年に苦しんだ関節炎は彼が新世界から持ち帰ったオウムからの感染によるものだという指摘がなされています。歴史上の人物の病気に関する記述は、医学的な知識を持たない人の手で記録される場合が多く、ダーウィンの病気に関する記録はかなり近代的なものになっていますが、それでも当時はまだ高度の医療装置がない時代だったため、コーエンはその病気を見極めるために、ダーウィンの様々な写真や彼の著作、またその家族についても調査する必要がありました。その結果、コーエンは「まず、周期性嘔吐症候群(CVS)については確実だろうと見られる。これは長年に渡って彼が苦しんだ症状の多くを占めている」と語り、CVSダーウィンの病気の一つだと指摘します。CVSはアセトン血性嘔吐症とも言われ、多く幼児期に発症する病気で、原因不明の嘔吐を引き起こし、数十年にわたって症状が続くこともあります。でも、CVSだけでは直接の死因となった心臓疾患を説明することができません。これについてコーエンは、1835年にダーウィン南アメリカアンデスで現地の虫からシャーガス病に感染したのではないかと指摘しています。シャーガス病はサシガメを媒介としてヒトに感染し、心筋炎、心肥大などの心臓障害を引き起こすもので、何年もの潜伏期間を持つことからもダーウィンの症状に合致します。また、シャーガス病の感染は、ピロリ菌の感染も誘発していることが多く、ピロリ菌は胃や十二指腸に潰瘍を起こすことが知られていて、これも嘔吐や腹痛の原因となっていたのではないかと考えられます。

<不安と病気>

 「意識は志向的である」というのが近代認識論の基本ということになっていますが、それが意識の基本的な特徴とは思われません。と言うのも、そのように主張したからと言って意識が何かなど皆目見当もつかないからです。「感情は志向的である」ことが感情の基本性質だとは誰も言いません。なぜなら、感情の中には志向的対象をもたない感情があるからです。特に、激しくない感情、穏やかな感情になると、その感情の対象はぼんやりしてきます。そして、対象がなくても感情だけが生じる場合が出てきます。その際たるものが「不安」です。不安はそもそも曖昧でぼんやりしていて、特定の対象や事態を指してはいません。はっきりした志向的対象をもたない不安はそれが嵩じて病気となっても、どのように治療したらよいかわからないことになります。そして、その症例となるのがダーウィンではないかと言うのが前半の話。でも、それでは埒が明かず、医学的な病名を今の知見から追求するとダーウィンの病気はどうなるのか、それが後半の話でした。

 不安と病気の関係はもっとずっと複雑怪奇で、心身関係の謎の宝庫になっています。今の私たちはダーウィンの不安と病気を解明し、克服できたとはとても言えず、その解決の見通しも立っていません。