固有種と外来種の区別から諸行無常へ:A君の意見

 妙高山麓は山菜宝庫。その時期が来れば、SNSは山菜の記事に溢れ、山里の恵みが次々と届けられる。外国産の野菜や果物が溢れる中で、流石に山菜は日本固有の植物だと信じられてきた。山菜は自ら山菜採りを楽しみ、食すだけなく、立派な商品として売られていて、中国産の鰻のように外国産の山菜があっても今や不思議はない。

 山菜の中にも外来種がいる。有名なのがクレソン(オランダガラシ)で、今ではすっかり野生化し、山菜の市民権を獲得している。アカザの若葉はビタミンAとCが豊富で、ホウレンソウに似た味で、あえものや油炒めにされている。アカツメクサの若芽は茹でて水にさらし、あえものや油炒めにし、茹でた花は三杯酢で食べることができる。エゾノギシギシの若芽は茹でて水にさらし、おひたし、油炒め、煮物にする。山菜以外だと、キクイモは本来アメリカインディアンの食用で、代用食として使われていた。セイヨウタンポポはヨーロッパではサラダの材料として使われている。また、セイヨウノコギリソウハーブティーの材料になり、ヒメジョオンの若い苗はゆでて、おひたしや酢のものにできる。

 外来種も在来種も元を辿ればどこかでその区別は曖昧になり、最後は消えてしまう。それは植物に限らず、動物、特に人間でも同じことである。外国人も移民も難民も、そんな区別はいつの間にか時の経過に応じて風化していき、今の日本人のように区別できなくなってしまう。最初にあった区別はなくなり、見事に一様化、均一化してしまう。だが、生物種は増え、分化してきたのもこれまた事実である。

 メキシコマンネングサ(メキシコ万年草)は、ベンケイソウ科マンネングサ属の多年草。日本に帰化した植物だが、原産地は不明。原産地も帰化地も区別がつかないなら、帰化植物とは言えない筈なのに、「メキシコ」と冠をつけていて、メキシコから帰化したとでも言いたいのかと勘ぐってしまう。帰化植物は人間の活動とともに存在したと言ってもよいほど古い歴史があり、世界に分布する雑草のほとんどは帰化植物。近世以降人間の移動が飛躍的に広がり、それに伴い、生物移動もはるかに多くなった。他国と領土がつながっている場合、外から侵入したものを判別するのは厄介で、ほぼ不可能。その点、島国の日本では帰化植物の判別がかつては容易だった。

 A君は帰化植物から人間の帰化をつなげて考えていき、外国人、移民、難民と類似の概念が横並びにつながって出てくることに気づいた。そんな区別の連なりもやはり風化によって次第に消えて行く。これらを組み合わせれば、物の遣り取りだけでなく、情報の交換、さらには人の往来も同じように考えることができるのではないか。実際、人々は情報を交換し、自らも移動し始めたのである。もしそれが歴史的な事実だとするなら、現状維持、現状保存という立場は特段の理由がない限り、理不尽で不自然な振舞いと言うことになる。それを止めて、放任するなら、混じり合ってエントロピーが高くなっていくしかないのが歴史ということになる。グローバル化とはエントロピーの法則に合致したものであり、ローカルな特徴を維持保存することの方が自然の中では不自然なことなのである。

 一方、文化、歴史、伝統などの保存は自然な流れに掉さすことであり、そこに人や社会のこだわりが顔を出すのだが、仏教はそれが無駄なことを見抜いていたのかも知れない。万物流転、諸行無常の思想は、すべてが区別なく平準化していく姿が自然の成り行きであることを主張している。一方、固有の歴史、文化は他との違いが強調され、固有化され、固定化されていく。そうであれば、伝統や文化とは諸行無常観に対する人のこだわりであり、生きることにこだわることから生まれた矜持のようなものでもある。仏教の伝統的な無常観は存在物の平準化と固有化の両方を含み、物理的自然のエントロピー増大に違反していないと見做すことができ、それこそ仏教独特の伝統なのだとも主張できる。

 とはいえ、多様化、個別化が進む生物進化と、一様化、均一化が進む物理変化とが共に諸行無常とまとめられると、さすがにそれはないだろうというのがA君の偽らざる気持ちでもある。修行無常は俯瞰的過ぎて、逆に何も見えなくなるというのがA君の考えである。そんなA君の考えも直に平準化され、いずれ均されてしまうのか、それとも個性的な考えとして特異な地位を占めることになるのか。仏教でも科学でも、今のところはA君の疑問にうまく答えられないようである。

*画像はメキシコマンネングサとホソヒラタアブ