妙高山麓は山菜の宝庫。山菜の時期が到来すれば、facebookも山菜の記事が増え出し、山里の恵みが次々と届き始める。最近は外国産の野菜や果物が珍しくないが、流石に山菜は日本在来の植物だと信じられているようだ。今やすっかりブームとなった山菜は自ら山菜採りを楽しみ、食すだけなく、今では立派な商品として売られている。そうなると、中国産の鰻のように、外国産の山菜があってもおかしくないということになる。
ところで、ヨーロッパ中に日本のイタドリが外来種として帰化している。繁殖力が強く、コンクリートやアスファルトを突き破る嫌われもの。ドイツ語ではJapanischer Staudenknöterich。また、最近は同じく日本在来のKirschessigfliege(Drosophila suzukii)というオウトウショウジョウバエがドイツで増え、サクランボ、プルーン、キイチゴ類に被害を与えている。外来生物は思わぬところにいるものだが、日本のミジンコはアメリカから来た4個体の直系子孫で、立派な外来種。帰化植物は困りものとして嫌われる前に、人の目論見に合致したものとして積極的に取り入れられたものだった。にもかかわらず、その浅はかな知恵が見事に外れた結果、厄介な存在に変わってしまったのである。
では、山菜の場合はどうか。山菜は食べるだけでなく採るのも面白い。そんな山菜の中にも外来種がいる。もっとも有名なのがクレソン(オランダガラシ)で、今ではすっかり野生化して、山菜としての市民権を獲得している。では、他にどんな外来の山菜があるのだろうか。幾つか挙げてみよう。
(1)アカザ
若葉はビタミンAとCが豊富で、ホウレンソウに似た味で、あえものや油炒めにするとおいしい。
(2)アカツメクサ
若芽や若い花が食べられる。若芽はゆでで水にさらし、あえものや油炒めにする。花はゆでて、三杯酢で食べる。
(3)エゾノギシギシ
若芽はゆでて水にさらし、おひたし、油炒め、煮物にする。
山菜以外だと、キクイモは本来アメリカインディアンの食用で、代用食として使われた。セイヨウタンポポはヨーロッパではサラダの材料として使われている。また、セイヨウノコギリソウはハーブティーの材料になり、ヒメジョオンの若い苗はゆでて、おひたしや酢のものにできる。天ぷらも美味しい。
外来種も固有種も元を辿ればどこかでその区別は曖昧になり、最後はなくなってしまう。
それは植物に限らず、動物、特に人間でも同じことである。外国人も移民も難民も、そんな区別はいつの間にか時間をかけて風化していき、今の日本人のように区別できなくなってしまう。最初にあったメリハリのある区別はなくなり、見事に一様化、均一化してしまうのである。
帰化した山菜も固有の山菜も味に違いがなければ、誰も食べるのを拒まない。通常の野菜が外国産だからといって拒む人は少ない。外国産の山菜がスーパーに並んでも何ら変わるところはない。人の舌が外来種と固有種を区別できるためにはそれ相応の学習が必要で、通常はそんな区別はせず、美味いものは美味いのである。
メキシコマンネングサ(メキシコ万年草)は、ベンケイソウ科マンネングサ属の多年草。日本に帰化した植物なのだが、原産地が不明という変わり種。原産地も帰化地も区別がつかないなら、帰化植物とは言えない筈なのに、「メキシコ」と冠をつけていて、メキシコから帰化したとで言いたいのかと勘ぐってしまう。帰化植物は人間の活動とともに存在したと言ってもよいほど非常に古い歴史があり、世界に分布する雑草のほとんどは帰化植物。近世以降人間の移動が飛躍的に広がり、それに伴い、生物移動もはるかに多くなった。他国と領土がつながっている場合、外から侵入したものを判別するのは厄介で、ほぼ不可能である。その点、島国の日本では帰化植物の判別がかつては容易だった。
メキシコマンネングサは本州の関東地方以西〜九州の日当たりのよい道ばたなどに生える。茎は直立して高さ10〜17cmになる。葉は鮮緑色で光沢があり、長さ1.3〜2cmの線状楕円形、花は黄色で直径0.7〜1cm。花期は3〜5月。観賞用に栽培していたものが帰化したと考えられている。
帰化植物から帰化動物、さらには人間の帰化をつなげて考えていくと、外国人、移民、難民と類似の概念が横並びにつながって出てくることに遭遇する。そんな区別の連なりもやはり風化によって次第に消えて行く。
これらを組み合わせれば、物の遣り取りだけでなく、情報の交換、さらには人の往来も同じように考えることができるのではないか。実際、人々は情報を交換し、自らも移動し始めたのである。もしそれが歴史的な事実だとするなら、現状維持、現状保存という立場は特段の理由がない限りは理不尽で不自然な振舞いと言うことになる。それを止めて、放任するに任せるならば、混じり合ってエントロピーが高くなっていくしかないのが歴史ということになる。グローバル化とはエントロピーの法則に合致したものであり、ローカルな特徴を維持保存することの方が自然の中では不自然なのである。
文化、歴史、伝統などの保存は自然な流れに掉さすことであり、そこに人や社会のこだわりが顔を出すのだが、仏教はそれが無駄なことを見抜いていたのかも知れない。万物流転、諸行無常の思想は、すべてが区別なく平準化していく姿が自然の成り行きであることを主張している。そうであれば、伝統や文化とは諸行無常観に対する人のこだわりであり、生きることにこだわることから生まれた矜持のようなものである。皮肉なことに、人はそんな仏教の無常観を仏教文化だと考え、それを守ろうと考えたのだとすれば、それは「瓢箪から駒」の結果となるのである。仏教の伝統的な無常観は偶然にも物理的自然のエントロピー増大に合致していると見做すことができ、それこそ仏教独特の伝統なのだと居直れることになる。