「夕焼け小焼け」の「小焼け」は何を意味しているのか。こんなつまらない問いから始まった話は、科学的な「小焼け」のもっともらしい説明を的外れにする「朝焼け小焼け」の存在によって言語レベルのレトリックの説明に頼ることになりました。その「朝焼け小焼け」は金子みすゞの詩「大漁」に出てきます。
大漁
朝焼小焼だ
大漁だ
大羽鰮の
大漁だ。
浜はまつりの
ようだけど
海のなかでは
何万の
鰮のとむらい
するだろう。
金子みすゞの詩は多くの日本人の共感を得てきました。彼女が世界を見る複眼的な手法は感覚と思考が混じり合った独特の世界像を生み出しています。彼女の詩への人々のシンパシーは『万葉集』、『古今和歌集』などの和歌の場合にはまずないものです。芭蕉や一茶、子規などの俳句について今の私たちがもつシンパシーの多くは金子の上記の詩へのシンパシーとよく似ています。私にはこのシンパシーの有無、範囲、質などが少々気になるのです。日本語を母語としない人たちはこのようなシンパシーをそもそも持てるのでしょうか。和歌や俳句の外国語訳がありますが、訳によってその内容はある程度伝わるのでしょうが、シンパシーは果たして伝わるのか、その辺の事情、知識、そして感性も十分に持っていた漱石の答えを是非知りたくなります。
俳句や詩はシンパシーを持たれることによって人々に好まれたり、嫌われたりするのですが、人々のもつシンパシーの力はどのように生まれるのでしょうか。恐らく、同じような体験に基づくものを核にして、共通の知識、感覚を活用した共通の記憶によって生まれる感覚的、感情的な共通意識なのではないでしょうか。大袈裟に言えば、民族、一族、家族などの共通生活体験が基礎になって生まれる共通経験の意識的で感情的な側面がシンパシーだと思われます。
俳句を重ね合わせたような金子の詩は、表現対象に対する複数の視点、感情が詩の中に連句のように並列されていて、その複眼的表現が私たちのシンパシーを獲得しています。風景へのシンパシー、言葉から生み出される風景と言語表現に対するシンパシー、知覚のシンパシーなど、いわゆる認識の風景を複数同時に感じ取ることができるのが金子の詩の特徴で、自然の風景と変化の直観(芭蕉)、人と自然への共感(一茶)が両方登場していて、彼女の詩へのシンパシーは「共観(共通直観)」と呼んだ方が適切なのかも知れません。