雨が長く降らないと、その先に待っているのは砂漠化。雨が降り過ぎると、その先には洪水や氾濫が待っている。適度に雨が降ると、作物が育つ。これは雨に限らず、気象のどの項目にも成り立つ。だから、雪も同じで、適度な雪はふるさとに利すること大である。
とはいえ、私にとっての雪の功罪とふるさとにとっての雪の功罪は随分と違う。雪国に住んでいない私には雪は日常生活の一部ではない。それゆえ、雪が毎日の生活の一部になっているふるさとの人々の反応は私とはまるで異なる。私には雪が滅多に食べないレストランの御馳走のようなものでも、毎日食べる人にはその御馳走が身体に良い筈がない。
では、妙高に住む人たちにとって雪はどのような意味をもつのか。「地方再生と雪、観光事業と公共事業(=除雪)」といった項目がほぼ習慣的に頭に浮かぶのが真面目な人たちのお決まりの行動パターンなのだが、もっと身近なことに注目するのも一つの手なのかも知れない。
「適度な積雪量」などといったものがあるかどうか怪しいのだが、もしあるなら、それは赤倉や池の平と新井では当然違う筈である。赤倉や池の平などのスキー場の最適降雪量はどのくらいなのか考えたくなる。また、新井の農場、新井の街中の最適降雪量はそれぞれどの程度なのか。私など新井のそれぞれの地区の最適降雪量などこれまで考えたこともない。また、除雪のために最適な積雪量はあるのだろうか。除雪業者と市の除雪計画が最適になるような降雪量など果たしてあるのだろうか。
観光用の雪と生活用の雪について、それぞれに最適降雪量があるなら、それらはどれほどの量で、その差はどのようなものなのだろうか。そんなことが妙に気になってしまう。
こんなことを考えてしまうのは、今日はこれから東京でも雪になるらしいという情報に刺激されたからだろう。雪が降ると、海で存分に格闘した老人をヘミングウェイが描いたことが思い出され、老人となった自分がどんな「老人と雪」の主人公になれるのか、つい夢想してしまうのである。