二つの街道

 北国街道は旧新井市の真ん中をくねくねと曲り、その両側に主な旧家や商家が並び立ち、街道を中心に新井がつくられてきたことを示しています。北国街道以外の道は脇道か新道という判断が子供にもできました。
 私の生家は妙高市の小出雲にあり、その北国街道に面していました。子供の頃、その道はまだ舗装などされておらず、夏は車が通るたびに土ぼこりが勢いよく舞い上がり、そのためかよく水撒きの手伝いをさせられました。雨が降れば、水たまりがあちこちにでき、自動車が通るたびにたまった水を通行人に容赦なく浴びせる道でした。冬には雪のために1.5mほどの幅の道に狭まり、車など通れず、そりだけが物資の輸送手段になっていました。道路全体の除雪など誰も想像せず、冬にはバスも運行しないものと決まっていました。
 私の家の前あたりから坂道になり、頸城平野の終わりを実感させる地形になっていました。道に沿って小さな川が流れていて、冬には雪のために水がせき止められて、洪水がしばしば起こったものです。人々はこの洪水を「水突き」と呼んでいました。積もった雪の下を川から溢れた水が暴れ流れるため、どこに水が溢れ出るかわからず、突然に縁の下から水が突き出し、溢れ出ることなど珍しくありませんでした。実際、新井の街がほぼ平地にあるのに対し、小出雲は傾斜地にあったのです。
 町は下町、中町、上町と続き、渋江川を過ぎると小出雲でした。上流で日曹の工場廃液が垂れ流されていたためか、いつも悪臭が漂い、時には魚の死骸が浮き上がるというのが渋江川でした。今なら大問題となっているはずですが、当時は大した苦情もなかったようです。その汚い川を渡ると、直に飯山への分岐の三叉路があります。それを過ぎると小出雲の集落で、新井の街とはちょっと違った感じで、田舎染みてきます。どの家にも屋号があり、共通の姓が多かったために、屋号で呼ぶ方が便利でした。勾配のきつい坂を上ると杉の巨木が天を突く賀茂神社が左手に見えてきます。境内は静寂が支配し、子供には怖い感じさえしたものです。年代物の拝殿はなかなか立派なものでした。新井の街中にある白山神社は明るい境内ですが、賀茂神社は背後がすぐに山のせいか、薄暗く不気味な雰囲気がいつも漂い、子供の私には近づきたくない場所でした。  
 私の家の手前から始まる坂が小出雲坂だと思い込んでいましたが、それは間違いで、小出雲から次の板橋までの杉林の中の坂道が小出雲坂です。坂を登れば高田平野はもう見えなくなります。古来北国街道の旅人の感傷を誘った坂で、新井小唄にも歌われています。御館の乱では景虎を支援する武田軍約二万がこのあたりに陣を張って景勝を牽制したとのことです。

   越後見おさめ小出雲坂で    泣いた昔は夢じゃない (新井小唄)  
 
 詩は相馬御風で、中山普平が曲をつけたもので、そんなに古い歌ではありません。ここで「ほろりと泣いた」というような馬子唄があったのかも知れません。今歩けばさほどの急坂とも思えないのですが、昔は相当な難所だったようです。

 さて、上町から横町へと左折すると、飯山へ向かう道があり、それが飯山街道です。この道は中学生になっての最初の夏休みに何度か自転車で富倉峠まで往復した想い出があります。今風にはサイクリングと言ったところなのですが、行きは登りだけ、帰りは急降下と呼べる道筋で、そのスピードを楽しむのが私の目的でした。今はこの飯山街道の付近を北陸新幹線が走っています。
 飯山街道は高田平野と北信濃を結ぶ幹線で、新井から飯山城下に通じていました。今頃は両脇に2メートル近い雪壁をもつ坂道で、長沢川沿いを上っていきます。一生懸命にペダルを踏み続けると、やがて県境となり、飯山市富倉地区に到着するのです。自力で県境を越えた最初の経験でした。そこから方向転換すれば、後は下りだけの坂道であっという間に小出雲に着きます。ひと夏に何度もこの小旅行を一人で楽しみました。

 北国街道と飯山街道という江戸時代以降の幹線道路についての私の想い出はこんなものです。私にとっては圧倒的に北国街道の方が生活の道。飯山街道は私にはレジャーの道でしたが、横町のバス停で長沢や猿橋に向かうバスを待つ多くの在郷の人たちを憶えています。今はどちらの道も狭く、曲がりくねった、目立たない道となっていますが、戦後暫くは人々の生活を支える重要な道だったのは子供の私にもわかっていた気がします。