ふるさとを知り、遡る

 若き西脇順三郎は徹底して西洋に傾倒した。そのため、「ふるさと」を嫌悪し、「小千谷」という言葉すら厭った。だが、戦後は折りあるごとに小千谷を訪れ、子供の頃の思い出の地を歩き、独特の風景画を描き、信濃川を愛でた。彼のふるさと転向は何ともわかりやすい。

 10歳前後の私の生活世界(Lebenswelt)はとても狭く、妙高山塊は遠景でしかなく、歩き回れる里山、経塚山、陣場、松山などが近景で、私が遊びまわる場所だった。今では妙高市の象徴である妙高山は私の生活世界では遠景画像の一つに過ぎなかった。小出雲ではない新井の街中の子供たちにはそんな里山さえみな遠景に過ぎなかった筈である。子供はみな自分の家を中心とした生活世界に慣れ親しんでいて、日々の生活世界、つまり、ふるさとは実に狭かった。

 望郷、ノスタルジア、懐古はどれも懐かしくふるさとを思うのだが、嫌な思い出のふるさともある。ふるさとを嫌悪する一例が室生犀星の詩。

 

ふるさとは遠きにありて思ふもの

そして悲しくうたふもの

よしや

うらぶれて異土の乞食となるとても

帰るところにあるまじや

ひとり都のゆふぐれに

ふるさとおもひ涙ぐむ

そのこころもて

遠きみやこにかへらばや

遠きみやこにかへらばや

(「小景異情(その二)」、「小景異情」は六篇の短い詩からなる。)

 

 眼前の小さな情景に素直に浸ることのできない犀星、ふるさと往還を繰り返していた犀星が、ふるさと金沢にいて東京に帰ろうとする時に詠んだ詩である。ふるさとを遠くから想い出しているのではない。ふるさとは遠くにあって、想起されるもので、そうでなければ御免こうむりたいもの。つまり、この詩のモチーフはふるさとへの憎悪そのもの。だが、萩原朔太郎は「遠きみやこにかへらばや」を遠いふるさと金沢に帰りたいと理解し、この詩を望郷の抒情詩とした。この注釈を覆したのが吉田精一。吉田はふるさと金沢での作品と捉えた。

 ふるさとは異郷で、あるいは歳をとって思い出すもの。ふるさとは遠い記憶の中の風景であり、子供時代の生活世界である。ふるさとの生活世界の記憶は過去の記録につながり、現在や未来のふるさとではない。ふるさととは一人の過去のことだけでなく、家族の過去であり、人々の過去の集まりでもある。ふるさとは自らを含む過去への入り口であり、自らの起源への取っ掛かりとなる目印なのである、特に老人には。