戸隠、鬼無里から妙高へ

 「戸隠」という名前は子供の頃から知っていたのですが、そのためかその意味や由来については考えたこともありませんでした。でも、妙高や関山神社と比べると戸隠や戸隠神社は昔から人々の関心や興味が高く、そのため多くの文献に記載があり、その内容も様々です。そこで資料を漁ってみると、素人なりに次の二つが浮かび上がってきました。

 「戸隠」の名は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が、高天ヶ原の天の岩戸に隠れたとき、天手力雄命(たじからをのみこと)が、その岩戸を取って遠くへ投げ飛ばし、一方の戸は九州宮崎県の高千穂町へ、そしてもう一方の戸が信濃の戸隠へ落ち、その岩戸が山となり、戸隠山と呼ばれるようになりました(奥社の御祭神が天手力雄命)。

 その後、849年学問という修行者が入山し、先住の九頭龍神(九つの頭と龍の尾をもつ鬼が善神に転じて、水神になる)を山の守護神として岩戸で封じ、戸隠寺を建て、自ら別当となったと伝えられています。龍神の中の頂点に位置するのが九頭龍大神で、それを御祭神とするのが箱根神社戸隠神社の九頭龍社です。

 天の岩戸伝説は日本中に天岩戸神社が20以上もあり、岩戸が砕け散ったのかと苦笑したくなるのですが、「戸隠」の名前も長野の戸隠神社だけではなく、岐阜の郡上市にも戸隠神社があります。また、九頭龍伝承は九頭竜川流域だけでなく、九頭龍神を祭った神社が日本中にあり、そのトップに位置するのが箱根神社戸隠神社です。

 こうなると、「戸隠」は実在するもの(地域や山)の固有名詞ではなく、神話や伝承からつくられた固有名詞で、語られる仕方に応じて複数の対象を異なる仕方で指示していることになり、準固有名詞のようなものとなります。その上、「戸隠」の意味についても複数あって、「(岩)戸に隠れる」、「(岩)戸を投げて隠す」、「九頭龍を(岩)戸で封じ隠す」のいずれも伝えられてきた意味です。

 そして、「現代語で読む戸隠伝承」(*)を読むと、古事記や日本書記から始まり、江戸時代までの様々な文献の記述によって「戸隠」が揺れ動き、その指示や意味を変えてきたことがわかります。また、この揺れも神話や伝承の特徴で、神仏の解釈に似て、様々に変動を繰り返しています。結局、「戸隠」が何を指示(reference)し、何を意味(meaning)するかは一意的に定まらず、時代と共に変化してきたということになります。そして、このようなことは「戸隠」に限らず、他の地名についても成り立つと思われます。

*「現代語で読む戸隠伝承」で検索し、それを読んでいただければ、戸隠神社に関する記載の歴史を辿ることができます。

 

 次は「鬼無里」の由来です。

<伝説1>

都から配流された紅葉という高貴な女性がいた。里長はなにかと紅葉の心を察してこの地に加茂川、東京、西京、高尾、四条など都から名を取った地名をおき、紅葉をなぐさめた。だが、紅葉は盗賊の首領となり荒倉山に移り住み、旅人を襲って豪勢な暮らしをするようになる。人々は紅葉を鬼女と呼ぶようになり、それは遠く京の都にまで知れ渡る。朝廷は平維盛(これもち)に鬼女征伐を命じ、紅葉狩りを果たす。それまで水無瀬と称していた地は、それ以降「鬼の無い里」、つまり「鬼無里」と呼ばれるようになった。

<伝説2>

天武天皇信濃遷都を計画し、使者を信濃に遣わした。彼らは信州各地を巡って候補地を探し、水無瀬こそもっとも都にふさわしい山里だと結論した。そこでこの地の図を作って、天皇に報告した。これを知った土着の鬼どもは大いにあわて、都ができないようにと、一夜で山を築いた。鬼を憎んだ天皇は、阿部比羅夫に命じて、鬼どもを退治させた。この時から、この山里に鬼はいなくなり、鬼無里と呼ばれるようになった。

 二つも伝説があるのは実に羨ましい限りで、単なる遺産ではなく、戸隠一帯の伝統的な文化そのもの。(東京の)遺産がどれだけ(京都の)伝統のように残るかという観点からは、妙高の遺産は(戸隠の)伝統に匹敵するのか、つい考えてしまいます。そんな後ろ向きの考えは忘れ、「紅葉狩り」を見直してみましょう。

 葉が赤くなるのは葉の中のクロロフィルが分解され、赤いアントシアンが生成されるから。一方、黄色になるのはクロロフィルが分解され、黄色のカロチノイドが残るため。モミジはひときわ紅色の目立つカエデの仲間。カエデの中でも葉の切れこみの深いイロハモミジの仲間は葉が大変美しく、多くの人に愛でられてきました。植物学的にはモミジもカエデも「カエデ」、どちらも分類上はカエデ科のカエデ属の植物。カエデは世界に幅広く分布していますが、モミジとして親しまれているカエデは中国や朝鮮半島に数種自生するのみで、それ以外は日本列島に集中しています。カエデは日本で磨かれ、モミジと呼ばれ、日本の秋を代表する植物となっています。

 カナダの国旗はカエデ(メープル)。「紅葉(もみじ)」の語源は、紅花から染料を「揉(も)み」出す様子から、「もみ」が「紅」を指すようになり、楓の紅葉もこの紅花から染料を抽出するときの色の変化の様子と似ているので、「もみずる」が「紅葉(もみ)ずる」になり、さらに名詞化して「もみじ」になったとのこと。

 春の花見、秋の紅葉狩り、いずれも同じように物見遊山と言ったのでは何か腑に落ちません。春の花に浮かれるのはわかるとしても、秋の紅葉に浮かれる人はいないでしょう。紅葉には心浮かれるのでなく、物のあわれを感じるべきなのです。平安貴族たちは春の桜や夏の藤を愛でました。桜などは内裏に植えられていましたが、紅葉を楽しむには自生する山に赴く必要がありました。彼らにとって秋の行事はお月見と重陽(ちょうよう)の節句。彼らは美しい紅葉の赤に無常を感じ、やがて来る冬の寂しさ、枯れて散る葉に死をを重ねていたのかも知れません。例えば、『平家物語』では、壇ノ浦の合戦の後、波間に平家の赤い旗が漂い、それは紅葉のようだった、という描写があります。平家の赤はもの悲しさを象徴する色。紅葉狩りを楽しむようになるのは室町時代以降のことで、醍醐の花見で有名な秀吉は同じ年の秋に醍醐で紅葉狩りを開こうとしましたが、その願いはかないませんでした。茸狩り(きのこ狩り)、薬狩り(猪狩り)のように山へ出掛け、紅葉した赤い葉を拾い集めたことから「狩り」になったようです。

能の「紅葉狩」は、深紅に染まった紅葉の山中に鬼女が現れるというストーリー。黒味を帯びた山奥の紅葉の色は凄みが漂います。さて、そのストーリーはというと?戸隠山に「紅葉」という鬼女が住んでいました。山を降りては村の人々を餌食にするため、時の帝が平維茂に鬼退治を命じます。維茂が戸隠山に向かうと、美しい女たちが紅葉の下で宴を催しています。維茂は女たちに誘われるがまま酒宴に加わり、酔いしれ深い眠りに落ちます。この女たちこそ鬼女とその手下。罠にはまった維茂を前に、鬼女が本性を現わそうとすると、維茂の夢に神が現れ、お告げとともに神剣を与えます。危機一髪のところで目を覚ました維茂は、神剣によって鬼女を退治し、戸隠山に平穏な日々が戻ります。多くの場合、能の鬼は女の妄念から生ずるのですが、「紅葉狩」ではそれとは反対に、鬼が美女に化けています。よく似た戸隠、鬼無里の鬼女伝説は能の「紅葉狩」の影響を受けてできたようです。

 鬼が女に化けるより、女が鬼になる方がずっと自然で、リアルなのですが、女が鬼になり、その鬼がまた女に変身すると考えれば、いずれでも大きな違いはないということでしょうか。「黒塚(安達ケ原)」では鬼婆が登場し、老婆と鬼の組み合わせになっています。鬼と女はいずれがいずれの化身なのか、伝説の背後には人間観が横たわっています。

 

戸隠、鬼無里から、妙高

 これまで「戸隠」や「鬼無里」の由来を辿ってきたのですが、肝心の妙高周辺はどうなのでしょうか。「飛騨」の名は斐太と関係があるのでしょうか。まず、戸隠との関わりに関心を持ってみましょう。妙高市にある「関山神社」はかつて妙高山村関山三社大権現と称され、裸形上人によって開かれた妙高山は修行の山でした。

 平安時代以降、戸隠山は修験の霊場として全国に知られていました。この地には九頭一尾の龍神がいて、その大きさは戸隠山から新潟県妙高村関山を回り、能生町までしっぽが届いたほどでした。そこで、関山神社(新潟県妙高市)には胴中権現、能生白山神社新潟県糸魚川市)には尾先権現が祀られました。九頭龍権現は水神で、昔から干ばつの時は全国から雨乞いの祈願に参拝する信者が多く、信越地方一帯の水を司る神様でした。

 そこで九頭龍伝説を辿ってみましょう。善知鳥(うとう)神社(青森市)の周辺に八岐大蛇の姉である持子の九頭龍が潜んでいました。宗像三女神の長女・竹子姫(大己貴命の妻)の子の島津大人が、九頭龍を見つけ、切りかかると、九頭龍は逃げ出し、能生の白山神社糸魚川市)周辺に至り、関山神社(妙高市)を通り、戸隠の九頭龍社(長野市)に逃げ延びました。こうして、九頭龍は戸隠の宮に留まることになりました。

 各地に九頭龍大神(くずりゅうおおかみ)の伝承があり、ある時は悪役、またある時は善神として語られてきました。では、その正体は何なのでしょうか。

 一つの尾から九つの首を生やした龍(あるいは大蛇)の姿で描かれる九頭龍大神の中でも有名なのが芦ノ湖九頭龍大神奈良時代に、万字ヶ池(今の芦ノ湖)には九頭の毒龍が住み、たびたび大波を起こしては里人たちを苦しめていました。天平宝字元(757)年、駒ヶ岳で修行を積み箱根大神の加護をいただいた萬巻(まんがん)上人がついに毒龍退治に挑み、連日祈祷をして法力でもって毒龍を調伏しました。こうして萬巻上人は箱根神社 里宮に続き、万字ヶ池のほとりに九頭龍大神を祀りました。荒ぶる化け物を鎮め、神として祀ることは、出雲の八岐大蛇や常陸国の夜刀神の神話に似ています。全国に散らばる九頭龍伝説の中で特に多いのが、この調伏・鎮静型の伝承です。千葉県君津市の鹿野山にはヤマトタケルが人々を襲う九頭龍と死闘を繰り広げたという口伝がありますし、既に戸隠神社の九頭龍社のご祭神は封印された九頭龍だと述べました。これらの言い伝えには大和民族対土着民の戦いが透けて見えてきます。

 九頭龍は毒蛇、仏法守護の神、そして様々な姿に変わっていきます。なぜ九頭龍はこのように全国各地に現れ、時として恐れられ、時として崇められたのでしょうか。その理由は、日本古来の信仰と大陸文化との融合の過程にあります。九頭龍は仏教から派生した神でした。仏教の元となったインド神話では猛毒を持つ大蛇とされ、仏教に取り入れられる時に仏法を守護する八大龍王の一柱「和修吉(わしゅきつ)」となりました。

 さて、八岐大蛇は出雲の国の鳥髪で暴れていましたが、酒を飲んでしまい、須佐之男命に退治されました。八岐大蛇の正体は、川の氾濫・盗賊の襲来・出雲の国そのものと諸説あります。九頭竜川と場合と同じように、斐伊川・出雲の国そのものと考えていいでしょう。こうなると、九頭龍と八岐大蛇はダブってしまい、一つに見えてきます。

 この辺で妙高に眼を転じると、海岸を北上してきた出雲文化が内陸に折れて信濃へ向かう途中にあるのが妙高です。居多神社がある直江津から関川水系を遡ると、信濃へ向かう北国街道沿いに出雲町、大己貴社、斐太神社、小出雲など、出雲地名と出雲大神を祭る古社が連なります。文化7(1810)年の「東都道中分間絵図」の高田の城下町を見ると、出雲町が記されています。今の上越市南本町1丁目辺りです。さらに、北国街道を南へ進むと、石塚を経て荒井宿に入り、それに続くのが小出雲(村)です。今の妙高市小出雲1、2、3丁目あたり。小出雲は信州飯山道との分岐点でもあり、飯山道を進むと、信越国境の関田峠に至ります。そこから先の旧温井(ぬくい)村にも小出雲があります。先祖は大昔出雲から流れてきて、そこに住み着いたと伝えられています。そこから飯山を経て善光寺方面へ向かうと、越後の小出雲から関山を越えて信濃入りした北国街道と交差するのです。

 これまでの話から、戸隠の九頭龍と出雲の八岐の大蛇という二つの異なる伝説物語が混じり合い、それらがそのまま日本のあちこちで伝承されてきて、その一つが妙高ということになりそうです。