雪とスキーとレルヒ少佐

 妙高では例年のことですが、雪が積もり出しています。私が雪で思い出すのはスキーとレルヒ少佐。オーストリアのレルヒ少佐(1869-1945)は日露戦争に勝利した日本陸軍を視察、研究するため明治43(1910)年に来日。翌年、13師団視察のため高田を訪れます。スキーを知っていた長岡外史師団長の願いにより歩兵第58連隊で日本初のスキーの指導が行われました。練習は平地をすべる基礎から始まり、4日目からは南葉山の中腹にある旭山の頂上から麓の練兵場まで滑り、それから3月24日まで34回スキーを教えました。スキーは軍隊専用ではなく、雪国の生活にも取り入れるべきというのが長岡師団長の方針で、民間スキー講習も実施しました。1か月後には日本最初のスキークラブ「高田スキー倶楽部」が発足し、多くの人々がスキーに接することになりました。レルヒ少佐は二本のストックを使うスキーと一本杖のスキーとの両方を滑ることができました。上越では山の急斜面を安全に移動するため一本杖のスキーを教えました。

 レルヒ少佐は高田だけでなく、北海道でもスキーを教え、そのため、どちらがスキー発祥の地かという論争がありました。高田では外国人から日本人にスキーの技術が伝わり、スキーの技術や用具が研究され、一般の人たちに広まっていったことが、ほかの地域と大きく異なります。そのため高田が「スキー発祥の地」となり、初練習の日を記念して1961年1月12日、金谷山に「レルヒの像」が建てられました。実際、レルヒには多くの高田の友人との交友があり、その中にはプロペラひげの長岡師団長、岡倉天心の長男岡倉一雄、画家の片桐文邦などがいました。オーストリアに帰還後の晩年のレルヒに高田の友人たちは金銭的な援助まで行っています。レルヒ少佐と高田の人々の温かい関係が偲ばれます。それを具体的に示す「企画展日本スキー発祥110年記念 レルヒ少佐と高田の友人たち」が今年の7月10日から9月5日まで高田で開かれました(そのチラシはWebで見ることができます)。

 私の高校時代の冬のスキー授業は金谷山で、重いスキーを担いで金谷山まで行くのが大変でした。当時のスキー板はヒッコリーで、しかも長さが2mを越えていて、信じられないほどの重さでした。金谷山にはレルヒ少佐の像が既にできていて、一本杖を持った彼の立派な姿が思い出されます。