ペット、家畜、そして食料

 8年ほど前に引っ越して、ペットが自由に飼えるマンションに移った。いろんな犬たちがエレベーターに乗り込んでくる。その8割以上が小型犬で、それも不自然な姿格好の犬たちである。人間より速く歩ける犬は少なく、たいてい歩くことが不得意である。人間の介護がなければ生きていけないような犬ばかりというのが私の印象で、どこが可愛いのか、何が癒しになるのか、私にはよくわからない。

 現在飼われている、ペットの犬たちは自然選択の結果ではなく、人為選択の結果である。だから、浅はかな人間の欲と都合の賜物だと驚嘆するしかないのだろうか。ペットの所有者には美形でも、自然の中では奇形としか思えない犬たちが溢れている。

<子供の頃に>

 私が生まれ育った妙高には今の人たちがペットにしたいような犬はいなかった。よく吠え、子供を威嚇する、元気な犬が多く、実際に私自身も何度か襲われた。雑種で中型、赤毛の犬が多かった記憶が残っている。犬と並んで猫も飼われていた。私の家にも猫が飼われていたが、私用のペットというより、ネズミ捕りとして飼われていた。とはいえ、兄弟のいなかった私には大切なペットで、家では行動を共にすることが多かった。だが、そこは猫と子供、彼女の行動は独立していて、夜はネズミ取りに忙しそうだった。

 さて、昭和20年代妙高の代表的な家畜となれば、牛だろう。農耕用の家畜として私の近所の農家でも何頭も働いていた。ペットと違って一家の働き手であり、精神的な癒しではなく、一家の経済を支える重要な一員だった。そのためか、ずいぶんと大切に扱われ、牛小屋は総じて綺麗であり、食事も新鮮な草、調理された穀物が与えられ、仕事の後には身体を綺麗に洗われ、いつも清潔だった。これは一緒に飼われていたブタ、ヤギ、ニワトリとは大きな違いだった。それだけ農家の家計に貢献していたのだと思う。

 我が家には牛はおらず、ニワトリが10羽ほどいた。残飯を中心にした雑食で、何でもよく食べていた。卵を食べることが目的なのだが、卵を産まない雄鶏が一羽、群れの統制のために飼われていた。これが私のような幼児をからかうのが好きで、日中庭に放し飼いにされていて、よく追いかけられ、突っつかれたものである。

 ニワトリは卵だけでなく、肉も私たちの食用として役に立っていた。祭りの前日には年老いて卵を産めなくなったニワトリが絞められ、祭用のご馳走となった。子供の私にはニワトリを絞めるところから、解体までが解剖実験のごとくに興味深いものだった。毛を除いてほぼすべてが料理の材料になる。ニワトリの身体の構造を自分の眼で確かめ、卵が管の中に一列に並んでいる様など、目を見張る体内の光景だったことが思い出される。

<大人になって> 

 大人になって、北米やメキシコで大規模経営の酪農牧場を知ることになる。一つの牧場で乳牛が500頭を超えると、牛は家畜ではなくなり、生き物というより、工場の部品や原料としか思えなくなる。大きな工場の中でしっかり管理され、規則的に搾乳される光景の中の牛たちは工場の一部にしか見えなかった。

 心の友になれるが、いなくても経済的には困らないペット、必要な助っ人どころか時には共同生活者そのものである家畜、これら二つの異なる動物の存在に加えて、食料としての動物、個性のない単なる肉や卵が圧倒的な物量で、しかも整然と私の前に現出したのである。品質管理、生産調整といったことが牛や鶏に当たり前のように行われていた。

 牛も鶏もそれら自身が働く場合と、乳牛や肉牛、さらに鶏卵となる場合とを比べると、二つは随分と違う。家畜は固有名詞で呼ばれても何もおかしくないのだが、膨大な数の牛や鶏が食料のために飼育されるとなると、誰も固有名で呼ばないどころか、単に管理される対象でしかなくなるのである。

 私のいとこは妙高で酪農を営み、40頭ほどの乳牛を飼育していた。彼が飼う乳牛は家畜とは言いにくかったが、単に牛乳を生産する動物というには個々の牛は個性を持ち、どれも愛情をもって飼われていた。

 人は残酷で、野生の動物には保護を前面に押し出し、狩猟を背後に隠しやるのだが、野生でなく、ペットや家畜でない生物には容赦ない。資本主義の生産過程に組み込まれ、資産として数えられている。これは植物についてもほぼ同様に通用する。ムギ、コメ、イモなどは基本的な農産物として容赦なく売買され、消費されている。

<老人として>

 このように私自身の子供と大人の時代を経験してくると、ペットや家畜は幸運な生き物たちで、食料になる生物たちは何とも災難でしかないというのが老人の感慨、悔恨である。人は罪深く、殺生を繰り返すしかないと悔やんでも、詮無きことである。

 ところで、地球の温暖化によって人の生活が持続可能かどうかは雲行きが怪しくなってきている。生命が溢れ、生物が生き生きと活動する地球は、たった一つの生物種に過ぎない人間によって破壊されようとしている。冷酷で我儘な人間に対して地球は何と寛容なことなのかと呆れてしまう。どんな神様より地球は慈悲深く、優しいのだが、そのために自らの存続が危ぶまれている。

 地球が安全でなくなることを自覚し出すと、かくも冷酷な人たちがなぜ幸運なペットや家畜を認めたかの理由がぼんやり見えてくるのではないだろうか。私たちは自らの生のために他の生き物を利用してきたのだが、その利用方法が癒し、労働の道具、そして食料と、様々だったが、つまるところ、どれも私たち自身の生存のためだったのだ。そして、それが私たちの「生きる」ことの実際の姿であり、意味だったことを如実に示してくれている。

 それにしても、地球は何と辛抱強く、私たちの我儘を許してきたのか。