人の好奇心がもっぱら形而上学的な探求に向けられたのがギリシャ時代。熱やエネルギーを伴わない研究活動は人に影響を与えても、地球にはおおむね無害な活動だった。キリスト教が支配するようになると、好奇心は悪として人の心のうちに閉じ込められ、欲望として表面化することはなかった。だが、人の好奇心をコントロールし続けることはできず、ルネサンス、産業革命を通じて好奇心は心の内から解き放たれることになる。越境した好奇心は欲望の実現としての資本主義を生み出す。それが知識と富を結託させることによって、欲望と化した好奇心は地球そのものを破壊するまでに至っている。このような物騒な表現も今では誰も大袈裟なものとは受け取らなくなっている。
資本主義万能の社会が21世紀に入っても相変わらず続いていて、人々の活動は破壊のために絶え間ない活動を繰り返すばかりとしか見えない。豊かな生活のために破壊を続けなければならないことが嵩じて、それら破壊の蓄積が未来を脅かすまでになっていることが単なる可能性ではなく、ほぼ確実だということになりつつある。20世紀にあった社会主義体制が変形した現在、資本主義の独占状態はその予言をさらに倍増している。
経済活動がもたらす自然環境の破壊が進み、地球自体がそれを回復できないまでになっている。地球は人間によって大きな痛手を受け、今や自力でそれを直せない状態なのである。そして、その結果を象徴的に表現したのが地球温暖化。温室効果ガスの増加によって気温が上がり、気候変動がもたらされ、食糧生産を不安定にしている。
資本主義世界での労働、教育、文化、科学などはいずれも破壊のための手段と化している。「破壊のための労働」、「破壊のための教育」等々という訳である。人間が生きることはそもそも破壊なくしては不可能なのだが、では、その破壊から私たちを守る理論はあるのか。これは「破壊する私たちが私たちを破壊から守る」というパラドクシカルな仕事であり、「私たちを守る」とは「私たちの住む地球(地域)を守る」ことだと理解されている。だが、そんなアクロバティックな理論など簡単には見つけることができず、今のところ自然保護のための理論として考えられているのは、単に「昔の(良き)ものを守る」という至極素朴なお題目、目標である。つまり、文化遺産を守るのと同じように自然を遺産として守るということであり、それはとても理論と呼べるものではない。だから、保全の哲学はなく、幾つかの手段についての知識しかないのである。
新しい商品の絶え間ない開発は、古いものを容赦なく破壊することである。消費とは破壊することで、どれだけあがいても壊すことによってしか欲望を満たすことはできない。それでも、古典芸能(能や歌舞伎など)は守られなければならない、保存されるべきだということになっている。遺跡、美術品、民芸品等は、かつてはそれらと異なる古いものを破壊することで登場したものだった。単に古いから守るのではなく、優れているから守るのだが、何が優れているかとなると、その最低限の理由さえなかなか見つからないのである。だから、伝統的なものは保存することにしているのだが、保存されるべき理由は過去の記録を保存するためと言う以外になかなか見つからないのである。
地域での活動、例えば妙高のいもり池とその周辺の環境保全にも確たる思想がある訳ではなく、私たちの資本主義的な活動による環境破壊を部分的に修復することでしかない。修復目標はかつてのいもり池の環境に近いもの。環境保全はこうして消極的な過去の復元に帰着するのである。何とも歯痒い話である。そして、実際の細やかな保全活動の隣には暗い近未来が控えている。
人間の活動が環境の破壊を伴うことへの責任として環境保全があるだけではなく、環境を保全しないと地球そのものが破壊され、死んでしまうという危険が確実に迫っている。そして、それは私たちの「自滅」、「自殺」を意味している。