高原の湿地や湿原は変化が早い。その風景のスピーディな変貌はおぼろげに予想できても、実際のスピードは変幻自在で、ある時忽然と姿を消してしまっても何ら不思議はない。不安定な湿原は安定した深海に比べると、その変容、変化の量も質もまるで大違い。例えば、細菌やウィルスを考えて見れば、それらの遺伝子が変異を繰り返し、瞬く間に変化してしまうことに比べ、多くのカメや深海魚はほとんど変化しないままで生存し続けている。つまり、ほとんど進化しないものから絶え間なく進化するものまで千差万別で、それが進化を知る作業を奇々怪々なものにしてきた。生物も自然も進化するのだが、その万物流転の有様は千差万別。そんな自然、さらには社会や人の心に対して、私たちの心理的な反応はどのようなものなのだろうか。
私たちの関心は知らないものにまずは向けられるのだが、それだけでなく、不安定なものにも惹きつけられる。好奇心は知らないものと変化が著しいものとに同じように向けられる。好奇心も関心も実際には区別しにくく、とても人間的なもので、それゆえ常に情況的、文脈的、社会的なものである。その状況依存的な好奇心、関心は自然変化の場合、絶え間なく変化する事実を知り尽せないために起こり、それに焚きつけられる。そして、不明なものを含んだ事実が実は地球温暖化や生物多様性に繋がっているのである。これは地球温暖化も生物多様性もアカデミックな概念であるだけでなく、人間的、社会的、さらには歴史的、思想的なものを含んだ概念であることを意味している。地球温暖化も生物多様性もピュアにアカデミックな概念ではなく、私たちの意図や欲求が状況と共に組み込まれた概念なのであり、その意味では相対的で、胡散臭いものを含んでいるということを忘れてはならない。
未知なもの、不安定なものに関心をもち、その本性、正体を解明したいというのが私たちの本能であり、それを指すのが好奇心だった。私たちが好奇心をもつのは私たちの心の積極的で、正の側面を示し、私たちが不安をもつのは私たちの心の消極的で、負の側面を示している。このように考えられてきたのではないか。好奇心や関心が正の側面、不安や恐れが負の側面と受け取られてきたのではないか。
わからないという無知が不安を引き起こし、わかろうと頑張る。その結果、何かがわかると、それはその先のわからないものが何かがわかることになり、いつまでもこの「わかる-わからない」の繰り返し過程が進行するため、不安から安心、そして次の不安と心的状態の繰り返しが際限なく続いていくことになる。つまり、不安と好奇心は表裏一体の心理状態なのである。
そのような過程が進行する中で、子供は好奇心に強く反応し、大人は不安に対して敏感になる。無知や未知のもつ不安と知のもつ不安(無知のもつ不安、知のもつ不安)は違っているが、無知から既知、既知から無知へと知識が変化する度に、心理的には不安と安心が繰り返されることになる。
不安はぼんやりした不安からはっきりした不安まで様々だが、はっきりした不安は不安ではなくなるだろう。不安とはほんらいぼんやりしたもの。ここでのぼんやりした不安とは「わかったことによって、わからないものが見えてくる」ことを指している。怒りや諦め、悲しみや喜び、苦しみや楽しみが「わかることからわからないことがわかり、それが続くプロセス」の中で登場する心的な状態を指している。