既に確定していて、新たに何かを望むことができなくなっている未来は、新たな望みの絶たれた文字通りの「絶望の未来」である。だが、一方でそれは極めて安定した、迷う必要のない「安心の未来」である。悪意に満ちた望みを絶つこと、それは確かに安心に繋がっている。
それに対して、確定しておらず、まだ誰にもわからない未知の未来は、何が起こるかわからない「不安な未来」である。だが、一方でそれは何かを望み。欲するならば、思い通りに実行できる「希望の未来」である。どんな天変地異でも起こりかねない未来、それは確かに不安に満ちている。
これらが生活する私たちの単純な対応であり、安心や不安に対する単純な付き合い方は既知と未知の状態に強く依存したものである。
努力が報われ、成果が期待できる未来は希望の未来である。だが、確定した未来のもとでの努力は無意味であり、自由意志による行為の実現は不可能である。確定した未来は過去や現在と何ら変わらない存在論的特徴をもっている。つまり、過去の出来事、現在の出来事、未来の出来事はどれも同じ出来事であり、過去が過ぎ去り、現在が正に起こっていて、未来が到来することはなく、いずれの出来事も単に「ある」のである(このような世界が物理学でモデルとして使われてきた世界で、Block Universe Model、あるいは4次元主義的世界と呼ばれてきた)。このような世界では夢や希望は現実と同じものであるから、夢でも希望でもないことになる。一方、夢や希望、そして不安や絶望はダイナミックに変化する世界の中で意味をもつのであり、静的な世界では死物でしかない(私たちの常識の世界では、過去、現在、未来という時制が本質的に異なることが時間の本性であると捉えられている)。
私たちが不安なのは現在や未来であり、その不安は心の中の意識状態である。その不安の内容、つまり何に不安なのかと問われれば、それは未来の出来事や状態についてである。不安の志向的対象は意識の志向的対象と何ら変わるところがなく、明日の試合を意識する場合も、不安に思う場合も、共に志向的対象は「明日の試合」である。それゆえ、不安について考察しようとすれば、私たちが不安をもつときの心理状態の方が主役になるべきなのである。単に意識する状態を考察するのではなく、不安な状態で意識する時の状態を考察すべきということになる。
ぼんやりした不安やけだるさ、アンニュイは志向性が薄れ、ほぼ100%心理状態だけを指すようになる。こうなると不安は感情の一種と呼んでも構わないようになり、退屈、倦怠、さらには悲しみや寂しさと同列の意味を帯びてくる。さらに、自分自身への不安、自己意識への不安となると、不安の病的な側面が強く現れるようになり、それが嵩じると神経症の症状が現れることになる。不安のもつ否定的な側面が強く出るなら、その不安を意識から取り除くことがもっぱら求められることになる。
科学研究と日常生活での不安は同じではない。科学研究での研究者の不安は、「知っていれば、不安でなくなる。知らないなら、不安になる」と要約できるのではないか。実に単純な不安であり、「未知=不安、既知=安心」と図式化できるほどにわかりやすい。そこには謎など何もない。だが、日常生活はもっと複雑だと思われている。だから、上述のように不安には色々な側面があり、それらをすべてうまくコントロールするのは厄介だと信じられてきた。だから、科学研究での不安は単純で、それゆえ参考にはならないと考えたくなる。だが、知っていることと不安でないことが同じと断じることは科学研究だけのことなのかと言えば、そんなことはなく、私たちは社会生活の多くの場面で科学研究の場合と同じように単純化された仕方で不安と付き合っているのである。社会生活の実践の場面ではむしろ科学研究での不安と同じ仕方で不安に対処する方が多い。
不安が私たちを襲う仕方、時、場面等々は様々で、不安の強さも千差万別。今のところ不安は解決されて四散するより、それに打ち勝つ私たちを試すが如くに顕在している。だから、不安とうまく付き合う術をさらに工夫しなければならない。だが、忘れてはならないことがある。それは、単純化された不安が私たちに夢や希望を与えるということである。例えば、現在のコロナ禍の状況で私たちがもつ不安は科学研究での不安にとてもよく似ているように思われる。