アウグスティヌスの時間(3)

アリストテレスの時間論との比較>
 アウグスティヌスは「時間とは何か」と問い、答えを出そうと試みる。同じ問いに対し、「時間は物体の運動である」と先に答えていたのがアリストテレス。彼の時間論と比較し、そして「天体の運動=時間」の否定についてアウグスティヌスが述べていること、特に時間によって運動を測るということについて考えてみよう。
 アウグスティヌスにとって、時間の本質そのものは到底理解できないとはいえ、時間は魂のうちで捉えられるものだった。一方、アリストテレスは、時間を物体の運動の数と捉える。

「私たち自らが自らの思想をすこしも転化させないとき、あるいはそれが転化していても気づかないときには、私たちには「時がたった(時間が経過した)」とは思われないからである……」

記憶喪失で途中の記憶を失ったとき、また、眠りから覚めたとき、その間は時間が止まっていたように感じられ、時がたったとは感じない。アリストテレスは、「……私たちが「時がたった」というのは、私たちが運動における前と後の知覚をもつときである」と考えている。時間がたったと感じるためには、運動の前後の差を知覚することが不可欠ということである。それゆえ、時間を感じるには運動が必要で、時間は運動なしには存在しえず、運動に付随するものと考えている。そこで、アリストテレスはこの運動の前と後の知覚の数を、運動の数と表現したのである。
 アリストテレスは、時間が運動の存在によって初めて意味を持ち、運動を観察する人によって把握されると考えた。時間は変化や転化なしにはありえないとアリストテレスは考えているが、アウグスティヌスは魂のうちに印象を刻み込むことによって時間を認識すると考えているので、印象が起こらなければ、時間は感じられない。アリストテレスにとって、時間は運動を数える単位でしかないが、この点はアウグスティヌスと大きく異なっている。私たちの主体的な関与、すなわち魂がなければ時間は認識されえないというのがアウグスティヌスの基本的な考えである。しかし、アリストテレスの場合、直接把握されるのは運動であり、時間はその記述の道具として付随するだけである。これに対し、アウグスティヌスは時間こそが先にあり、時間のうちで運動が行われていると考えた。
 アリストテレスの時間は運動を記述する装置としての時間でしかなく、人間存在と深く関係したものではないように見える。それに対してアウグスティヌスの時間論は、時間を徹底的に過去・現在・未来という概念から考えていて、人間の存在、魂に多分に依存している。アリストテレスは運動という物理現象を記述、表現するための時間を考えたが、アウグスティヌスはまず神の時間と人間の時間を区別し、その上で、人間の内面に現れる、記憶、期待、直観などの内的な時間を考えた。
 アウグスティヌスは「物体の運動=時間」を否定するために、天体の運動とろくろの回転の仮想実験を用いて説明している。昔から天体の運動は時間を表すものと考えられていて、古代の人々は太陽や月の動きで時間を把握してきた。暦はその代表的なものである。だが、アウグスティヌスは日や月や星などの天体がそのまま時間であるという哲学を批判し、もし天体の運動が休止し、ろくろのみが回転しているとしたら、その回転を測る時間はなくなると批判した。
 太陽、月、星などの動きが休止し、ろくろだけが回転し続けるとしてみよう。もし天体の運動そのものが時間であるなら、ろくろの回転が速い、遅いと語ることはできなくなるはずである。なぜなら、天体の運動が休止しているということは、つまり時間が休止しているということで、ろくろの回転を測る時間がなくなり、速い、遅いなどと言うことができなくなる。だが、私たちはそのような状態でも、一定の速さで回転しているであるとか、だんだん減速して最後には動きが止まったとか言うことができる。よって、天体の運動が休止しても時間はあると言えるのではないか。
 さらに、もし天体の運動そのものが時間であったのなら、一日がどんな速度で完了しても、たとえば、わずか一時間で完了したとしても、それは、同じ一日という時間であり、そもそも私たちに長さの違いは感じられないのではないか。だが、私たちは長さの違いを感じるだろう。このような考察から、アウグスティヌスは、私たちは時間によって一日を測っている、つまり、時間によって天体の運動を測っていると考えた。よって、例えば一日が十二時間で完了したなら、「今日は一日がいつもの半分の時間である」というように言うことができる。
 アウグスティヌスは、以上のような考察から、時間によって天体の運動を測っていると考えた。しかし、このアウグスティヌスの思考実験では、天体の運動だけが止まったり、速くなったりするだけであって、世界のほかのすべての運動はそのままの速度で継続しているという前提条件が隠れている。それらを使えば、アウグスティヌスの導き出した結果になるのは当然のこと。
 *次回はさらに二人の考えを比較し、いずれも現在の時間論とは違うことを浮き彫りにしてみたい。