時間はあるのか、あるならどこにあるか?

 「時間が流れる」という表現は単なる比喩的表現で、時の流れを感じるのは錯覚に過ぎないのか、それとも感覚レベルだけでなく、時間は実際に連続的に変化しているのか。4世紀の哲学者アウグスティヌスは、『告白』の第11巻で、「過去はもはや存在せず、未来はいまだ存在しない。ゆえに、「時間」は存在しない…」と述べ、「時間」が実在することに疑問を投げかけました。

 例えば、今この文章を読んでいるあなたが「似た文章を昨日読んだ」という昨日の時間を体験してみようといくら頑張っても、絶対にできません。既に昨日という過去は過ぎ去り、あなたが体験できるのはその過去の記憶でしかありません。同じことは未来にも当てはまり、未来はまだやってきておらず、それゆえ、やはり体験できません。

 この考察から、実際の「時間」は現在しかない、とアウグスティヌスは考えました。ならば、「時間」の流れは意識の錯覚に過ぎません。過去も未来も頭の中にしかなく、人が体験できるのは現在だけですから、時が流れていく感覚は、私たちの意識が作り出したものに過ぎません。

 アウグスティヌスと似たような疑問を持ったのが紀元前4世紀の哲学者アリストテレス。彼は『自然学』第4巻の冒頭で「過去は存在しない、未来は存在しない」と問題を提起し、次の結論を導き出しました。それは「時間は、前と後ろにかかわる運動の数である」という結論で、わかりにくい表現ですが、ここでいう「運動」は「変化」とほぼ同じ意味。要するに、私たち人間は時の流れを経験しているわけではなく、「太陽の位置が変わった」や「顔が老化した」という日常の変化を数え、それを「時間」の流れとして認識していると考えたのです。

 アウグスティヌスが時間を意識レベルで捉え、流れる時間は錯覚に過ぎないと考えたのに対し、アリストテレスは時間を具体的なものの運動のサイズや数によって定義しようと腐心しました。客観的な「時間」の感覚は確かで、過去は存在し、未来は確実にやってくるはずと誰もが思っています。彼らが言ったように、私たちが「現在、今」しか体験できないのは事実であっても、だからといって過去や未来の存在を疑うのは間違っているというのが古典物理学でした。でも、近年になって彼らの言葉を裏づけるデータが増えてきました。現代科学によれば、「時間」は脳内にしかない意識的な概念かもしれません。

 では、「時間」の流れとはどのような現象なのでしょうか?人間は「時間」をどうやって把握しているのでしょうか?「時間」の謎を考えるために、再びアウグスティヌスの疑問に戻りましょう。すなわち、「私たちはなぜ「時間」を体験できるのか?」という問題です。私たちは日ごろから時の流れを実感しており、「時計を見たら、もう昼だった」や「カレンダーによれば、今年はあと2ヵ月だ」といった客観的な指標にもとづく体験はもちろん、「時間は過去から未来に向かって進む」、「過ぎた時間は二度と戻らない」、「今年は1年の進み方が遅い」などの主観的な体験を重ねながら毎日を送り、そこに疑問を持つことはありません。でも、考えてみると不思議なことではないでしょうか?

 私たちが体験すると思っている「時の流れ」は、視覚、聴覚、触覚などと違って、対応する感覚器官がありません。時間を感じる特別なセンサーは人体の内にも外にも存在しません。センサーがないのに、誰もが「時間」の流れを感じ取れるとなれば、アウグスティヌスでなくても悩むのは当然です。

 専用の受容器がなくても時間を感じ取れることから、人間が感じる時間は物理的な性質を持ったものではありません。「光の粒子の移動」や「空気の圧力変化」といった物理的事実がないにもかかわらず、誰もが時の流れを当然のものと考えています。では、私たちが日常で体験する時間は、いったい何を感知しているのでしょうか?そこで、アリストテレスの分析に戻ってみましょう。

 アリストテレスの『自然学』第3巻第4巻には空間的、そして時間的な延長の存在論的位置づけが述べられています。アリストテレスの『形而上学』は「存在」を基礎にした哲学で、時間については『自然学』で述べられています。彼は「今」について議論した後で、時間は「前と後ろに関しての運動の数」と定義しました。彼は運動概念を強調し、存在はすなわち運動である、時間は運動の計測によって生じると述べます。空間と時間から速度(運動)が派生するといったニュートン力学のモードと違って、アリストテレスはまず運動が存在すると述べます。

  「前と後ろに関しての運動の数」とすれば、時間とは純粋に物理的に定義されるパラメータに思えます。一方で、アリストテレスは「時間は運動の何か」であるとしても、「たとえ暗闇であって、感覚を介して何も感じられない場合でも、何らかの動きが我々の心のうちに起こりさえすれば、それと一緒に何らかの時間も経過したと思われる」としています。さらに、アリストテレスは「今が前の今と後ろの今の二つであると我々の心が語る時、このときに我々はこれが時間であるというのである」と述べています。いわば脳内での生理的運動(変化)も含めて時間の発生を措定しています。すなわち、現実に物理的運動を観察しなくても、脳でそれを想起すれば時間が生ずることになります。そうすると自然の『運動の数』を計測するのは人の脳なので、一体どちらが時間発生の根底なのかという問題が生じてしまいます。

 アリストテレスはあらゆるものを「存在するもの」と「存在しないもの」に分け、「時間」は「存在しないもの」だと結論します。というのも、「過去」と「未来」は存在していないので、「現在」もその存在は否定されます。よって、時間は存在しないのだから、「現在」の連続と捉えることもできません。そこで、彼は「時間は運動であり、変化である」と捉えます。運動や変化の速さ・遅さは時間によって計られるので、時間は運動そのものではありませんが、運動や変化のあるところには時間があるのだから、時間は運動や変化を示す尺度であると捉えることができます。つまり、「現在、今」を起点にして、過去や未来の出来事に言及できるのです。つまり、アリストテレスにとって、時間は運動や変化と相関的なものなのです。

 時間は過去から現在、未来へと連続して流れていきます。過去は変えられず,未来は決まっていません。それが私たちの「時間」についての日常感覚です。でも、そのような日常的な「時間」は現代物理学には存在しません。物理理論の数式は「現在地」のない地図のようなもので、私たちが今どこにいるかを教えてくれません。相対性理論によれば,そもそも唯一かつ絶対的な「現在」はありません。過去から未来にいたるどの瞬間も等しく実在しています。

 ニュートンは唯一絶対の時計があると信じ、世界はこの時計を共有していて、誰もこの同じ時計をもつという前提に立っていました。でも、物理学の発展に伴い、この前提は覆されました。相対性理論によれば,物事の後先はしばしば確定せず,経過時間は重力によって変化します。時間は観測者によって変わり、唯一絶対の時計はありません。

 でも、量子力学では「時間」のとらえ方が相対性理論とはまるで異なります。量子力学の時間は基本的にはニュートンの時間に先祖返りしています。相対性理論量子力学の統合は物理学の悲願ですが、時間概念には大きな差があります。解決の道筋を探るため,ループ量子重力理論など様々な理論が模索されているが,決定打はまだありません。

 こうして、アリストテレスアウグスティヌスニュートンアインシュタイン量子力学のそれぞれが異なる時間概念を提案し、そのどれかが決定的に正しいとは言えないというのが現状であるということになります。