自由と決定に関して、ここでは伝統的な三つの立場を解説し、自由と決定が難問の一つであることを強調してみよう。まず、それら三つの立場を分類しておこう。
1. 固い決定論:スキナー、フロイト、ローレンツが主張し、哲学者の多くは否定する。
2. 柔らかい決定論:ホッブス、ロック、ヒューム等
3. 非決定論:カント、テイラー、実存主義者等
1. 固い決定論
固い決定論の基本的な主張は次の論証にまとめることができる。
P1 どんな行為も、それが起こらなければならないなら、自由ではない。
P2 どんな出来事Xに対しても、機械論的な因果法則に従ってXが起こることを保証する先行する原因がある。
C どんな行為も自由ではない。
論証の二つの前提はどのような意味で正しいのだろうか。P1は「自由」が何を意味するのか述べているだけである。P2が決定論の主張である。どんな出来事も因果法則に従って起こる。何事も起こるからには原因があり、偶然に、何の原因もなく起こることはないと言うのが固い決定論の考えである。つまり、P2 は疑いえないものである。
原因が結果の生起を保証する、つまり原因があれば、結果が生じなければならない、そして起こるものは何であれ何かの原因の結果であるので、何事も起こらなければならない、あるいは何事も必然的に起こる。それゆえ、自由なものはない。
人々は多くの出来事についてP2は正しいことを認めるが、人間の行為に関しては認めたがらない。そして、人間は単なるものとは違うと言われてきた。それに対して固い決定論者は次のような論証で対抗する。
P1 どんな行為も、それが起こらなければならないなら、自由ではない。
P2 人間の行為は、欲求、感情、願望等から起こる。
P3 人間の欲求、感情、願望等は、それらを引き起こすことを保証する特定の先行する条件によって引き起こされる。
C どんな行為も自由ではない。
したがって、固い決定論者は人間も他のものと違わないと考える。あなたの今の行為はあなたが生まれる前からある因果的な鎖の一部である。だから、あなたは現在の行為と心的状態をコントロールしているようにみえたとしても、実際にはコントロールなどしていない。それゆえ、固い決定論は規範的な倫理学の試みへの挑戦なのである。規範倫理学では行為に対する責任は自由な行為によって説明されてきた。
固い決定論の別の論証をみてみよう。自由を仮定して不合理な結論を導くという論証である。
あなたは自由であるとしてみよう。これは、あなたの行為は因果法則によっては決定されないことを意味している。どんな因果法則もあなたの行為を支配しないなら、あなたが何をするのかを予測することが不可能である。だが、相当な正確さで何をするかは予測できる。あなたの行為が予測不可能だとすると、それはあなたが自由だからではなく、あなたが異常だからだというのが多くの人の判断である。したがって、あなたの行為は因果法則によってコントロールされていなければならない。
固い決定論が正しいとすると、
・道徳によって要請されるという意味での自由はあり得ない。
・善悪の区別がなくなる。
・罪の概念が整合的でなくなる。
だが、固い決定論はこれらの結果が必然的に悪いことだとは考えない。例えば、スキナーは、人々は条件付けの結果であるので、私たちは条件付けがうまく行くようにできるだけ人々の教育をコントロールすべきであると論じた。
フロイトとローレンツ、そして社会生物学者のドーキンスも決定論者である。スキナー同様に彼らも人間の欲求の重要性を認めない。人間の主観性は何の特権ももたない。スキナーと違って、彼らは欲求を決める無意識の力を想定する。それら力は進化によって人間の本性の中に埋め込まれている。
これらの考えのいずれも自由意志は錯覚に過ぎないと考える。固い決定論によれば、人間性を理解する唯一の科学的に確かな方法が固い決定論なのであるから、自由意志という考えは真実を覆い隠し、真なる知識の獲得を妨げることになる。
2 柔らかい決定論
柔らかい決定論者は、すべてのものには原因があるが、自由でもあると論じる。「原因」と「強制」を誤って同義だと考える固い決定論は誤りで、行為には原因があるが、強制されるのではない。行為は原因をもち、強制されるものではないというのがその主張である。
柔らかい決定論者はさらに続ける。自発的な行為は自由であり、そうでなければ、時自由でない行為である。この立場は多くの人が賛成する立場で、デカルトやヒュームも柔らかい決定論者である。柔らかい決定論者は両立主義者とも呼ばれるが、それは自由と普遍的な因果性が両立可能であることを認めるからである。この点も第6章で復習しておこう。
柔らかい決定論は決定論の主張P2 に賛成する。それゆえ、決定論なのである。だが、P1には反対する。P1は曖昧で、次のように複数の解釈が可能である。
固い決定論はP1をどんな行為も原因をもつなら起こらなければならない、だから自由ではないと考える。つまり、原因をもつことは行為を自由でないものにするのに十分である。固い決定論によれば、原因は強制的なのである。これは正しい読み方なのだろうか。
どんな行為も原因をもたないことはないので、自由でないというのが固い決定論の主張だが、私たちが「行為は自由だ」というとき、それは何の原因ももっていないことを意味している。これは不合理だというのが柔らかい決定論の核心である。
「行為が起こらなければならないなら、それは自由でない」の「起こらなければならない」を再考しよう。行為が強制されると、「起こらなければならない」と言うことになる。だが、強制されない、自発的な行為が何の原因ももたないという意味ではない。銀行強盗が銃を頭に突き付け、「金庫を開けろ」と命令するなら、あなたが金庫を開けることは自由な行為だとは誰も言わない。強制されたからである。では、金庫を開けることを強制されずに開けたとすると、どうであろうか。あなたの行為は自発的だが、それは何の原因ももたないのだろうか。柔らかい決定論はどんな行為も原因をもつことでは固い決定論に賛成するが、行為が起こることは行為が強制されることではないと指摘する。行為が「自由」とはそれが強制されていないというだけである。
固い決定論は二つの事柄を混同していると柔らかい決定論は非難する。「起こらなければならない」には二つの異なる意味がある。すべてのものが原因をもつという意味で、「起こらなければならない」ので、この意味では何も自由ではない。だが、原因がないことが自由であるとは誰も信じないだろう。ある行為が別の意味で自由ではないということを意味していない。つまり、その行為は強制されておらず、自発的であり得る。
まとめ
決定論のテーゼ:すべては因果法則に従って起こるので、起こるものはすべて起こらなければならない、
固い決定論:決定論のテーゼは正しく、自由はない。起こるものが起こらなければならないなら、すべては強制的に起こる。出来事が強制的なら、それは自由でない。起こるものは皆強制的である。だから、自由なものはない。
柔らかい決定論:決定論のテーゼは正しいが、自由と両立する。というのも、自由は二つの要素、能力と欲求を要求するからである。自由な行為は実行することを妨げるものがない、自発的な行為である。
起こるものはすべて起こる。
私の欲求が起こる。
だから、私は別のように欲求できない。
私はしばしばしたいことをすることができる。
自由は私がしたいことをする能力である。(能力+欲求)
多くの行為は上述の自由の意味で、自由である。
3非決定論
非決定論は固い決定論も柔らかい決定論にも反対する。決定論のテーゼを拒絶する理由は次の論証で具体化される。
1. 決定論のテーゼはどんな事態とも両立可能である、つまり、反証できない。
2. 決定論のテーゼは私たちの日常経験を明らかにしてくれない。
3. 機械的な因果性という概念はものには適用されるが人間にはされない。人間には目的論的な説明が使われなければならない。
非決定論によれば、固い決定論が、「決定論のテーゼが正しければ、自由はない」と言うのは正しい。固い決定論も非決定論も、真の自由は起こるものは起こらなければならないなら存在できないことに賛成する。非決定論者の柔らかい決定論への反論は次のようである。
柔らかい決定論への非決定論からの批判
・自由の定義
本物の自由は文脈的である。Xに関する自由は次の三つの条件を要求する。
1. 私はXをすることができる。
2. 私はXをしたい。
3. 私はX以外の何かをすることができる。
柔らかい決定論者にはこれで自由には十分である。実際、柔らかい決定論者は3番目の仮定を否定しなければならない。それは決定論のテーゼと両立しないからである。
決定論のテーゼを疑う哲学的な理由、科学的な理由がある。
哲学的理由
・機械的な原因と結果の言語は志向的な文脈には適用できない。目的論的な説明が必要である。
・決定論のテーゼは日常経験に反するようにみえる。
・決定論のテーゼはどんな事態とも整合する。
科学的理由
・カオス理論
・量子力学
これら理由が健全であれば、条件3は満たされる。それゆえ、本物の自由が存在できる。
(問)人間の行為を目的論的に考える際、理由と原因のいずれが説明に適切か述べなさい。