子供は物語を紡ぎ、自由にその物語を面白くする

 既成の知識や情報を駆使することによって好奇心を満たす術を小児はまだもっていません。小児が知りたいと思うのは「知りたいものについての知識」ではなく、「知りたいものの物語」です。それが科学であろうと、文学であろうと、また遊びであろうと、「それが何か知る、それが何か考える」ということは「そのものの物語を紡ぐ」ということなのです。科学は客観的で、文学は主観的と区別され、客観性の有無があったとしても、「物語を紡ぐ」という行為自体に変わりはありません。知りたいものの知識とはそのものがもつ性質や本質についての知識ですが、そのものの姿や様子を因果的に映像のように捉えるのが「物語を紡ぐ」ということです。

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 「考えること」に目覚めた子どもは「物語」を紡ぎ始めます。そして、「物語」を紡ぐことによって、自分が生活する世界の現象や出来事に驚き、それらを理解しようとします。その時はまだ「言語的な知識」は大きな意味をもっていません。そもそも、幼い子どもには「書かれた知識」を読むことができないからです。子供は「知識」についての知識をもっていません。ですから、子供は不思議に思い、自ら考え始めるしかないのです。人は「知識」がないときに考え、「知識」があるときには考えないものです。なぜなら、知識が疑問を封鎖してしまうからです。リンゴが木から落ちるのを見た子どもは「どうしてリンゴは木から落ちるのだろう?」と疑問をもちますが、「重力」についての「知識」を学んだ子どもは、そのような疑問をもたなくなります。また、好奇心や思考が目覚めるためには「リンゴが落ちるのを見る」という「経験」が必要ですが、「知識」はその経験も不要にしてしまいます。「知識」があれば、人は考えなくても、経験しなくても済むからです。経験的に獲得された知識は言葉で表現され、その内容を経験し直さなくてもわかるようにしてくれます。「知識」とは改めて経験しなくても済むように工夫された「便利な省略道具」なのです。それゆえ、人間はそれらを組み合わせることによって、より抽象的で高度な理論をつくり出せるようになったのです。
 でも、その代償として、「知識」は公共的で「私だけの知識」ではないため、生命や感覚と直接つながっておらず、いくら知識を駆使しても感覚がそれによって満たされるということはありません。さらに、「生きている」という実感や喜びも知識は手放してしまったのです。これは言い過ぎで、本物の知識とは本物の世界についてのものであり、直観的な知覚経験と違っていることが知識の欠点という訳ではありません。知覚経験とは物語の姿をとっていて、人生は物語であり、物語の内容について脚注をつけるために知識が必要なのです。

 子供は物語を契機に世界を知るようになるというのがこれまでの話。そこで、その物語について考えてみましょう。物語の筋、プロットには作者の意図や企みだけでなく、登場人物の自由意志も不可欠です。何も望まず、欲しない主人公など作者にとっても、読者にとっても、退屈極まりない人物でしかありません。私たちの心を掴んで離さない主人公は私たちが望めないことを望み、達成できないことを容易に実現してしまうヒーローやヒロインなのです。その果敢な姿に私たちは心酔、熱狂するのであって、無気力、無関心の主人公など誰も惹かれません。私たちの人物評価はその人物の自由な思考や意志に多くを依存しています。ですから、自由意志をもてば持つほど、その人物の評価は高くなるという訳です。
 どんな物語にも始まりがあります。何かがどこかでスタートすることが物語のスタートですが、そのスタートを引き起こす物語がなければならないということはありません。何かがどこかで始まったところから物語はスタートする、それだけでも別に何の支障もなく、むしろそのような場合がほとんどなのです。物語の始まりは因果的でなく、偶然的で一向に構わないのです。物語の始まりは偶然的、突発的で何の支障もありません。通常は因果的に物語がスタートするのではなく、突然に、唐突にスタートするのです。「昔どこかに誰かがいた」ことが訳もなく始まることによって、そこから波乱万丈の物語が展開するのです。

 因果的な始まり、つまり原因が自由に選べることが非決定論的だというのであれば、物語は大半非決定論的です。結末が突然に訪れることも禁止していませんから、それも非決定論的と言えます。物理学の知識の適用を考えても、任意のシステムに対して任意の時間に方程式の解析をスタートさせることができます。システムの選択といつどのようにそのシステムについて記述するかは、私たちの自由意志に依存しているのです。
 自由にシステムを決めることができ、そのシステムの任意の状態から運動を起こし、それについて議論を始めることができ、何度も同じことをシステムに対して行うことができる、自由にコインを投げる、いつでも投げる、何度も投げる、どこでも投げる、ということを私たちは全く自然なことだと思っています。反復的な行為や出来事を決定論的な古典力学で何の支障もなく引き起こすことができます。自発的に行為するのが当たり前にできるのと同じように、コイン投げを何度も同じ条件で行うことができると私たちは確信しています。
 反復可能な出来事があるということは確率・統計の使用に対する正当化にもなっています。頻度的な解釈は反復を許さないと適用範囲は極端に少なくなってしまいます。どんな場面でも制限なく物理学の理論を適用できることが大切で、「普遍的」という意味は「いつでもどこでも適用可能」ということです。「何度、どのような状況で適用しても同じ結果が得られる」、これが普遍的であることの意味であり、普遍的な決定論はこのことを主張しています。任意に何を選ぶかは、出発点から始まるその後の因果関係からは独立しているのです。