リンゴの落下からコイン投げへ

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 リンゴの落下は確率的なプロセスであると考える人はまずいまい。だが、コイン投げとなれば、すぐにコイン投げの確率的なモデルを想像するのではないか。リンゴの落下とコイン投げのどこを見比べても、それらの間に古典的な決定論的過程とランダムな確率的過程の違いがあることを見出すことはできそうもない。サイコロと普通の立方体の場合も似たようなもので、決定論的過程と確率的過程の違いはやはり見つからない。リンゴが着地する状態が二つに分割できる、例えば、リンゴの表面に書いた文字が見えるかどうかで二分できれば、コイン投げと同じように裏と表の見分けができて、同じように扱うことができるのではないか。しかし、誰も何度もリンゴを落とし続けないし、ニュートン以来リンゴの落下は典型的な自由落下であるとみなされてきた。学校で受けた理科教育は恐ろしい。「リンゴや石ころは古典力学によって、コインやサイコロは確率論によって」という対応は条件反射のように私たちの頭に刻み込まれている。

 では、コインを何度も投げることができることから、投げる際の初期条件の集合を想定することができる。何度も投げることを時系列に従って1回毎に線形に並べれば、それは決定論的な因果的過程とみなせるのだろうか?それはずっと連続しているのではなく、1回目、2回目、…、n回目、…と数えることができ、それゆえ、それは不連続な過程とみることができるだろう。例えば、コインを投げ、表が出て、次に投げるまでの間はどのような因果過程となるのか考えてみればよい。地面に落ちたコインを拾い、再度投げる準備をする過程はどのように記述できるのか。これらの過程はコイン投げ自体とは連続しておらず、コイン投げの繰り返しを考える場合、コインが投げられればよいという以外の条件は何もついていない。次のコイン投げが一日後だろうと半年後だろうと一向に構わない。3回目を東京で、4回目を大阪で投げても文句は出ない。コインが投げられるときには必ず同じ条件で投げられる、というだけで十分ということになっている。次のコイン投げの初期条件がどのように決まるか、いつ決まるかは初期条件空間をつくる際には考慮する必要のないものである。(「連続的」ということが二つの異なる意味を含んでいることがこの文章から明らかになるだろう。実数が連続的という意味での連続と、出来事が途切れることなく続くという意味での連続である。)

 投げられたコインを拾う過程とそれを投げる過程が連続しているなら、コイン投げはマクロな因果的過程の一部として存在し、それゆえ決定論的になる。コイン投げの過程の連続性と、他からその過程への介入がないことが保証され、それゆえ、閉じた過程であれば、その過程に登場する物理量は当然ながら保存されることになる。連続的なコイン投げの文字通りの物理的な実現は、「保存性、連続性、閉鎖性」の三つが密接に結びついていることを示してくれる。保存的、連続的、閉鎖的な変化の中に「繰り返し」を見出すこと、挿入することはできず、それゆえ、コイン投げやその結果の頻度や分布といった表現は意味をなさないことになる。世界全体の繰り返しではないので、ポアンカレ再帰定理を思い起こす必要はない。これら条件を満たす因果過程に全く同じ繰り返しの過程は存在せず、一つの過程の一部に類似した過程、単なるパターンがあるように見えるということでしかない。

 コイン投げが確率的で、ランダムなのは、初期条件集合が表裏のランダムな分布を説明するからではなく、単にそのような初期条件集合が私たちに確率的な結果を生み出すと誤解させることに過ぎない。初期条件集合が表裏のアトラクターに吸引されるベイスンとなっていることが確率的であることの根拠だとすれば、その初期条件の一つ一つが実現しなければならないが、その保証など実はどこにもないのである。

 いずれにしろ、これまでの力学的モデルによるコイン投げは、なぜコイン投げが確率的なのかを十分に説明しているようには見えない。それどころか、確率的なコイン投げは不可能ということを強く示唆しているようにさえ見える。

 マクロな世界で個々の出来事や状態が確率的に起こることは不可能、これが私たちの健全で、常識的な判断で、ラプラスの判断でもある。そこにランダムな現象の存在を見出そうとすれば、マクロな世界が、一つの連続した、単純な因果的過程ではなく、神話や物語がもつプロット付きの因果過程、不連続で、分岐的な因果過程を含むものであることを認めなければならない。なぜなら、現実離れし、俯瞰的な見方をすることによって、複数の因果過程を対象にした確率モデルを構成できるからだけでなく、そのモデルがランダムな現象を説明できることを経験的に確かめることもできるからである。

 物語は確率的な要素を含めることができる余地をもっている。因果性に固執した過程だけでなく、不連続的に話を打ち切り、別のシーンへと移り、新たな過程をスタートさせることが自由にできる、それが物語であり、物語で描かれる世界である。物語のプロットの存在は出来事や状態の不連続性、それらの組み換えを前提にしている。

 私たちが理解する世界の因果的な時間発展はプロットを含む、つまり、不連続な初期条件の存在を認める。私たち自身が因果的な過程をスタートさせること、打ち切ることができるような世界に私たちは住んでいる。私たちは自由意志をもって行動している、と私たちは信じている。だが、物語のプロットが一切なく、物理的な自然の因果過程が一つだけあるというのが古典力学のモデルである。