中高生のための哲学入門(11)

変化の歴史(7)

アリストテレスと生物学)

現代の生物学者、そして科学者がアリストテレス的科学を受け入れない理由となれば、多くの点で彼が誤っていたからです。ルネッサンスを通じて、アリストテレスの多くの理論が再吟味されました。例えば、アリストテレスにとっての宇宙(cosmos)は完全さが要求される秩序でした。この秩序の頂点が「不動の動者(自らは動かず、他のものを動かすもの)」で、それこそが究極的な宇宙の原因でした。天球は不動の動者を模倣し、そうすることによって天上に永遠の円運動をもたらしたのです。そして、コスモスについてのアリストテレスの主張はコペルニクスの時代までヨーロッパを支配し続けたのです。

自然科学は変化する自然の対象を扱います。変化は自然科学が扱う最も基本的な現象の特徴です。アリストテレスの自然研究も変化の分析にあり、彼は変化を三つの要素を含むものと見ています。

 

(1)変化の結果として存在する形相

(2)以前にはなかった(1)の形相

(3)常に存在するが、変化の結果、(1)の形相によって新しく特徴づけられる質料

 

アリストテレスは生物の形相を「霊魂」と呼んでいますが、それは三種類あり、植物的、感覚的、合理的なものです(植物、動物、人間からなるのが生物である)。

 アリストテレスの自然研究の多くは生物学で占められています。彼はすべてのものが形相と質料から構成され、質料に起こる変化はある形相が別の形相に置き換わることであると考えました。すべての自然物は目的をもち、それを達成するという性質をもつゆえに、この置き換えが起こるのです。石の運動が低い地点に向かうのも、生物が成長するのも完全な状態を達成するための変化だと考えられたのです。

アリストテレスの生物学研究は動物が中心です。彼の生物学研究で特に目立つのは目的論です。「自然物の形相はその目的によって決定される」という目的論は、自然には普遍的なデザインがあるという考えとよく混同されますが、アリストテレスの目的論は宇宙の目的とは関係ありません。彼が主張する目的論は、事物の構造や行動はそれらの存在や機能に貢献するものとして理解されなければならないという主張なのです。

 

アリストテレスの正常モデル]

 どのようなものにもそれ本来の存在の仕方と場所があり、その本来的な姿を正しく把握することが本質の理解につながるというのがアリストテレスの「正常モデル」の考えです。アリストテレスの物理学は目的論に満ちています。彼は星も有機体に劣らず、目的志向型のシステムであると信じていました。内的な目的が重い対象を地球の中心へと引きつけるのです。重い対象はこれを自らの機能としてもっています。どんな対象にもその自然状態があり、その対象の不自然な状態から区別できます。対象が不自然な状態にあるのは外部からの干渉が働いた結果です。自然な状態にある対象に働いて、その対象を不自然な状態にする干渉力は、自然なものを偏向させる原因なのです。したがって、自然の中に見られる変異は自然な状態からの偏向として説明されることになります。干渉力がなければ、重い対象、軽い対象はみなそれぞれの本来の場所に存在することになります。ニュートンとそれ以後の物理学には「自然な」、「不自然な」という語は登場しなくなりますが、アリストテレスの区別はそれらの物理学においても可能です。対象に働く力がなければ、当然、干渉力もありません。力学での自然状態は力の働かない状態であり、慣性の法則がこれを表現しています。また、目的と機能はアリストテレスでは結びついていたのですが、ニュートン以後の物理学では切り離されることになります。

 このモデルは物理的なものだけではなく、生物に対しても適用されます。人間の正常な姿が人間の本質を具体化したものであり、その本質からずれたものが正常でないものです。それら異常なものはたとえ出現しても選択され、支配的になることはありません。このモデルは天体の構造や生命現象を大変うまく捉えています。模範になる姿があって、それに外れるものはたとえ存在しても、あくまで例外に過ぎないのです。

 

ダーウィンの変異モデル]

 アリストテレスの正常モデルと根本的に異なるのがダーウィン(Charles Darwin)の変異モデルです。彼は生物集団の中には常に変異が存在し、それが個体差として選択のふるいにかけられ、生存と生殖に関して有利なものがその集団の中で次第に多数を占めるようになるという、いわゆる自然選択説によって生物の進化を説明しました。この説明の出発点は変異の存在です。この変異、個体差には正常も異常もありません。あるのは個体間の差だけであり、この差が選択の原動力になっています。したがって、正常、異常とはある時点の集団の多数派、少数派に過ぎなく、本質的なものではありません。

 このように見てくるとアリストテレスニュートンダーウィンの違いは歴然としています。では、私たち自身が現象を考える際、いずれのモデルで考えているのでしょうか。多分、物理現象、生命現象に関してその原理的な部分ではニュートンダーウィン風に、私たち自身の身体的特徴、行動に関してはアリストテレス風に考えているでしょう。異常な行動は大抵の場合、悪い、してはならない行動とさえ考えられています。このように述べただけでも、そのような分析が価値判断を含むかどうか、価値判断からは中立かといったステレオタイプの問題ではないことが明らかでしょう。

 アリストテレスのモデルが(かつて考えられていたように)正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は優れて科学的な概念であり、それら概念を正しく使っての判断は正しい科学的な判断です。一方、ダーウィンのモデルが正しい科学的なモデルであれば、「正常」、「異常」は科学的に誤った概念であり、それら概念を使っての判断は科学的に誤った判断ということになります。これらの表現のどこにも価値判断など入っていません。問題は「正常」、「異常」を最初から価値判断が入っていると思い込むことです。確かに、より複雑な人間の行動に関しては科学的でない基準や約定が関与しており、そこから価値判断を含んだ「正常」や「異常」が生まれ、伝統や文化をつくってきました。しかし、それら基準や約定は科学的な知見に依存しています。その科学的な知見が正しいかどうかを判定するのはいずれのモデルを選ぶかという問題であり、それは価値判断とは独立した事柄なのです。

 

(問)変異モデルでは「正常」と「異常」がなぜ科学的な概念ではないのかを説明しなさい。