高田高校の校是、あるいは越後高田の「第一義」

 歳をとると、それまで見えていたものが見えなくなったり、気にもならなかったことが気になり出したりする。老いの証しだと見過ごせば済むことなのだが、そこは人の心、なかなかこだわりを吹っ切れない。その一つが自分の出身高校の校是「第一義」だった。私が出た高校の体育館には上杉謙信の「第一義」の額が掲げられていた。在学中その意味について説明を聞いた憶えはないが、力強い文字だけを残像のように憶えている。
 同窓会や県人会の集まりやそれらの会誌で「第一義」に接する機会が増えると、その意味をしっかり知りたくなるのが人情というもの。だが、肝心の「第一義」の意味、しかも上杉謙信絡みの意味となると、どんな説明や解説をひっくり返してみても、明晰判明とは程遠いものばかり。それが証拠に「第一義」と「独立自尊」を比べてみれば、「独立自尊」は文字を見ただけでどのような意味か誰でもわかるのだが、「第一義」は字面からではまるで判じ物
 校訓は、各学校がそれぞれの教育方針や生徒のあるべき姿を示した目標や理想のことで、「自律」、「勤勉」、「博愛」、「強く」、「正しく」といった言葉の中から構成された校訓が目立つ。いずれにせよ「この学校で学ぶ者はこうあるべき、こうあってほしい、こういう心を忘れるな」といった意味を込めて決められている。一方、校是は、学校設立の根本精神を表す短い言葉(標語)のことで、校訓とは違い、学校設立時のもの。
 これで校訓と校是の違いがわかる訳ではないが、建学の出発点が校是、教育目標が校訓と考えておけばよいのではないか。具体例として早稲田実業を考えてみよう。早実の校是は「去華就実」、校訓は「三敬主義」。「去華就実」とは、「華やかなものを去り、実に就く」こと。これは「実業」の精神を育てることであり、正に建学の精神そのもの。「三敬主義」は、天野為之(早稲田実業学校第二代校長・早稲田大学第二代学長)が唱えたもので、「他を敬し、己を敬し、事物を敬す」という主張。「敬の気持ちをもって他人に対すれば礼となって和の徳を生じ、己に対すれば自重自立となる。また机上の雑務から一国の政治まで、すべて敬をもって扱えば、事物はその性能を発揮して久しく耐え得る」という意味を持っていて、これが教育目標である。早実の校是、校訓は単刀直入、単純明快である。
 私学であればこそ校是や校訓が役に立ち、生徒を惹きつけるのだが、これが公立となるとどうだろうか。建学の精神も教育目標も独自のものではなく、国策に従ってつくられるのが公立であるから、自由で独自の校是や校訓という概念は私立とは自ずと異なる。高田高校は藩校「脩道館」を母胎にし、校是が「第一義」、校訓が「質実剛健堅忍不抜、自主自律」である。校是と校訓の間には何の関連もなく、校訓は戦前の決まり文句が並んでいるだけ。公立校の校是、校訓を私学のそれと単純に比べることはできないが、時代に合わなくなれば、スローガンを変えれば済むことである。だから、今の校是や校訓とは別に教育目標を定めればよく、高田高校も今の教育目標を掲げているのだが、それがまた至極つまらないのである。(1)学力の向上を図り、聡明な知性を陶冶する、(2)気力と体力を鍛え、豊かな人間性や社会性を涵養する、(3)高い志と品性を培い、国際社会に貢献する人材を育成する。これらを目標とする教師や同窓会幹部がいても不思議ではないが、生徒がこの昭和の美辞麗句に感銘を受けるとは到底思えない。
 校是は、卒業生としての私が特別文句を言うような事柄ではない。それはわきまえていても、「なぜこうも校是がわからないのか」という疑問は厳然と残ったままなのである。これが棘が刺さったような老人の気懸りで、この雑文を書く理由なのである。

 これからの議論の骨子を先に述べるために、ギリシャデモクリトスの原子論と釈迦の仏教を例に言語的に分析することから始めよう。二つは哲学、宗教と分類されても、共に世界の根本に関する主張である。それぞれの主張を簡単に述べておこう。基本的な主張は第一原理、基本法則、奥義など様々に呼ばれるが、第一義はその中の一つである。端的にthe first principleと訳すことができるのが第一義である。だから、

原子論の第一義は「すべてのものは原子からできている」である、
仏教の第一義は「すべてのものは変化し、止まることがない」である。

主張そのものを表現する「原子」を使った「原子論」はそれだけで何を主張しているかがわかり、仏教も「諸行無常」などと言い換えられてわかりやすい謂い回しによって基本的な主張がまとめられている。
 ところが、「第一義」と「諸行無常」を比べると、二つの名辞がレベルの異なるものを指していることがわかる。「第一義」は「諸行無常」を指示し、「諸行無常」は流転する因果変化を指示している。当然「第一義」の方が抽象度が高く、そのような名辞はそれだけでは何を指すかわからず、「何かの第一義」と言う仕方で補足しないと意味不明なのである(「何かの意識」、「意識の志向性」と言えば、成程と膝をたたく人がいる筈である)。また、何かの第一義の「何か」は上の二つの例のような何か、つまり原子論や仏教だけでなく、「私の第一義」、「謙信の第一義」でも構わない。何かの第一義が「正義の実現」であり、正義が第一義であると言われるのと同じ意味で、「校是が第一義」と言えるだろうか。それは言葉の誤用でしかなく、「校是が「第一義」という言葉である」なら辛うじて有意味だが、校是としてはナンセンスである。「第一義」が何を主張しているかわからないのは、「私の名前」が何という名前を指しているかわからないのと同じである。まとめるならば、「校是は第一義である」、「校是は「第一義」である」は共に誤りで、「校是は「第一義」が指示する内容」というのがこれまで行われてきた解釈のための共通枠。
 ここまでの話なら小生意気な小学生でもわかるようなことで、流石にこのような言葉の誤用が校是についてそのまま通用してきたことはあり得ないというのが大人の常識的判断で、きっと隠された理由や原因、経緯が歴史の中に埋もれている筈だと推測するのが普通である。そこで、謙信と校是の第一義についての歴史的経緯を素人なりに辿ってみることにしよう。

 謙信は熱心な仏教徒で、その彼が掲げた「第一義」は釈迦が悟った万物の究極の真理を指示する名辞。戦国武将として謙信は禅に傾倒し、その教えを重視した。その禅思想の用語の一つが「第一義」で、達磨大師と梁の武帝の問答の中に出てくる。
 5世紀にインドに生まれた達磨は、中国に初めて禅を伝えた。その彼が梁の武帝と問答した。深く仏教に帰依していた武帝が「如何なるか聖諦(しょうたい)の第一義(仏法最高の真理、悟りの境地とはどんなものか)」と尋ねる。達磨は「廓然無聖(かくねんむしょう)(カラリとして何の聖なるもの、ありがたいものはない)」と答える。それを聞いた武帝は「朕に対する者は誰ぞ」と言う。「そういう、わたしの目の前にいるお前さんは一体何者なのか」という訳である。達磨の答えは「不識(ふしき)(知らない)」だった。これが有名な問答のあらまし(『景徳傳燈録』第三巻、『碧巌録』第一則、『正法眼蔵』「行持」巻(下))。
 さて、問答で達磨が言いたかったことは何か。「禅とは経典にある言葉の教えではなく、心と心の触れ合いであり、釈迦の心を受け継ぐことにある。真実の教えは厳然として、いつでも、どこにでも在る。それは見せびらかすようなものではない」といったようなことではないのか。
 時代は下り、上杉謙信と林泉寺の和尚益翁宗謙が上の「不識」という表現について問答を行う。和尚は、「達磨が「不識」といった意味は何か」と謙信に尋ねる。だが、謙信はこの難問に答えられず、それ以来、謙信は「不識」の意味を考え続け、あるときはたと気づき、直ちに和尚のもとに参じた(どう気づいたかは私にはわからない)。
 梁の武帝は仏教を庇護して自分の存在をアピールしたが、謙信に武帝のような権力者になってほしくない、民あっての為政者であることを肝に銘じて、謙虚な心を忘れてほしくない、と和尚は考えたのだった(和尚のこの考えが不識とどのように関連しているのか私にはわからない)。その和尚の心を知った謙信は、林泉寺に山門を建立した際、「第一義」と大書して刻んだ大額を掲げたと伝えられている。
 禅問答を茶化す気は毛頭ないが、クイズと紙一重のところがあり、しかも不立文字と言われる如く、言葉による説明が少なく、現代から見ればそれが魅力的な欠点。「海にいるシカは何か」と問われ、「アシカ」と答えるようなところがある。確かに戦国武将の嗜みの一つが禅で、謙信はとても熱心だった。さて、話を戻し、「第一義」と呼ばれる釈迦の万物の真理は「世界は諸行無常、万物流転である」ことである。この原理は、どのように無常、流転なのかを説明しないで、問答無用に無常、流転を主張するだけで、現在の科学的な説明とはまるで違い、ヘラクレイトスの哲学に通じていないこともない。要はこの原理の下で人生を正しく考えるということなのだろうが、「人は死ぬ」と言っても誰もそれを原理、法則とは言わない。人は死ぬ原因や寿命についての原理を追求するのであって、人が死ぬのは単なる事実に過ぎない。
 さて、まず謙信が考え抜いてわかったことは「第一義」が使われた状況での達磨の「為政者はどうあるべきか」に対する考えである。彼は「第一義」の使われた状況全体の意義、「第一義」のプラグマティックスを理解したのではないか。したがって、彼が問答から悟ったのは「第一義=根本原理」の内容ではなく、それを聞いた武帝の態度に対する達磨の反応だった。そして、武帝にはない為政者としての心構えが和尚の問いへの答えだった。だが、これは随分と脚色された解釈であり、幾つもの保留をつけなければ、納得できるものではないだろう。
 上杉謙信に関する記述に登場する「義」は、「儒教の「仁・義・礼・智・信」の「義」であり、それは「利」の対局にあるもの」とされている。義は、人間の正しい行動について言われ、義の人とは正義を守る人のこと。また、大名にとっての「義」とは、「攻める正当な理由」という意味で、「大義名分」である。確かに、上杉謙信は「大義名分」にこだわる武将だった。「義」は「利が無くても正しい行いをする」ことなのだが、大名にとっては義と利は行動の両輪で、片方だけでは行動できなかったのである。
 上杉家は関ケ原の合戦のあと、会津120万石の領地を米沢30万石に減封された。さらに、景勝から3代目に当たる上杉綱勝が1664(寛文4)年、後継ぎのないまま死亡すると、15万石に半減させられる。米沢転封以来、財政は逼迫する。そんな折、定着し始めたのが儒教に基づく「義」の思想で、信玄との川中島での激闘は講談などで語られ、広く知られるようになっていった。その中で、謙信の義理堅さが次第に評価を高めていき、上杉家も謙信の「義」を積極的に継承していく。その継承の結果の一つが藩校「興譲館」の教育方針に表れている。細井平洲と上杉鷹山は学問を興すことによって目指す目的が「譲るを興す」ことにあると考えた。細井平洲は人間にとって最も大切なことは「譲る」、つまり「相手を思いやる」ことであると説いている。人間関係の中で譲り合う気持ちをもてば、お互いの心が通じ合い、物事もうまく運ぶと考えたのである。今風に言えば、倫理の基礎を謙信の正義から善へ移行したのが平洲や鷹山なのである。高田高校と米沢興譲館高校の違いは謙信と上杉家の倫理思想の違いを表現しているのかも知れないが、「興譲の精神」を第一義としたのが興譲館高校と言ったのでは、越後高田の人々は「では、高田高校の第一義は何か」と改めて問い直すことになる。
 江戸社会では、まず林羅山が義理について「人の履むべき道」と述べ、朱子学が日本に義理を導入した雰囲気を伝えている。次の中江藤樹では「明徳のあきらかなる君子は義理を守り道を行ふ外には毛頭ねがふ事なく」となり、儒教が次第に浸透していく。これが大道寺友山では「義理を知らざるものは、武士とは申しがたく候」となる。これは町人文化が台頭し、「利欲にさとき町人」が跋扈してきたため、「利欲にさときものは義理にうとく候」と捉え、武士の真骨頂を称揚するためだった。
 このような義理に関する朱子学的な解釈が急速に薄れ、新たな義理の意味が広まっていくのが江戸社会だった。そのスタートは西鶴の『武家義理物語』であり、その展開は近松作品によって完全な日本化を果たした。かつて亀井勝一郎が「仮名の誕生によって日本文化の草化現象がおこった」と述べたが、義理こそ「江戸文化の草化現象」の一つである。
 少々長くなったが、これが下衆の勘ぐりにも似た素人の私のとりあえずの解答である。きっと異論、反論続出だろう。謙信にとっての「第一義」は上記のようだとしても、為政者でない普通の高校生にとっての「第一義」とは何なのか。校是としての第一義はますますわからなくなっていく。それでも、上杉謙信が故郷の英雄で、その彼の人生の目標が「第一義」という言葉に象徴されているので、それを校是とすることは歴史的な事実の刻印なのだという理屈は成り立つのだが…
 そこで、次は「第一義」が校是として採用される経緯を探ってみよう。

 林泉寺の山門の扁額の表題が「春日山」、裏題が「第一義」で、この「第一義」がかつて額として掲げられ、それが昭和32年の火災で焼失、再度拓本を取り直したものが現在体育館に掲げられている。「第一義」は謙信の座右の銘であり、その意味は「人として宝とすべきは、物ではなく物を超えた心、すなわち人を思いやる慈悲の心である」と解釈されている。また、第一義は「周囲との協調を保ち自己育成を図る」という意味だとも言われていて、如何様にも解釈可能。「第一義」の精神は「私利私欲でなく公のために行動すべし」ともある。これらはいずれも信頼できる人たちの解釈で、多彩そのものである。私が知る限り、観光パンフにある説明が唯一まともなもの。それによれば、曹洞宗の林泉寺の当時の益翁和尚が「達磨不識の意旨如何」と謙信に問い、禅の「第一義」を悟らしめるとともに、「輝虎節目を守り非分をいたさざる事」との信念を立てさせたという話で、既述の禅問答に通じている。
 この解釈の異様な多義性の理由は、「第一義」が「万物の究極原理」の呼び名に過ぎず、その原理の内容を具体的に述べていないからである。それが解釈次第であっては、何でもあり校是になってしまう。言葉の誤用が原因で解釈の多様さが生み出されたとすれば理屈が通る。この不遜にみえる考えが誤りで、正統な意味はこうだという史実があれば、私には大変有難いのだが、それがなかなか見つからないのである。
 寺院の門と扁額は国宝や重文が多いが、林泉寺の山門は大正時の再建で、扁額だけが謙信自筆のもの。だが、その扁額自体は重文ではない。また、謙信は学を好み、和歌や詩にも長じ、特に書道は青蓮院流の妙手で、龍山や近衛前久について学んでいたが、その書でも重文という程ではない(後述の萬福寺の扁額参照)。だから、校是にしたのは扁額「第一義」の歴史・文化的な価値からではないだろう。
 『雪椿』(平成21年p.37)に久島士郎氏が竹澤攻一著『新潟県立高田高等学校沿革史余話』に鈴木卓苗(たくみょう)第9代校長の訓辞が記され、「…偲ぶべき唯一の宝物林泉寺山門の大額に跡をとどむる第一義をそのまま採って以て本校の修養目標と定めたい…」(一部改変)と引用されている。この9代校長とは誰なのか。鈴木校長は1879(明治12)年岩手県稗貫郡湯口村(現花巻市中根子字古舘75)の延命寺に生まれ、16歳で如法寺(曹洞宗)の養子となる。中学卒業後、第二高等学校に入学。東京帝国大学哲学科に入学し、学生時代も参禅三昧、曹洞宗の内地留学もしたという。東大卒業後、まず仙台の私立曹洞宗第二中学林の教諭となり、次いで新潟県新発田中学校の教諭になった。新発田中学校から、新潟県立村上中学校校長に転任し、さらに同県立佐渡中学校校長となる。続いて、同県立高田中学校校長となり、この在任中に自ら率先して全校生による「妙高登山」を始めた。この「全校登山」の行事は、現在の高田高校でも続けられている。その後も鈴木先生は西日本中心に校長を歴任され、昭和15年(1940年)定年退官。
 この鈴木校長が「唯一の宝物林泉寺山門の大額に跡をとどむる第一義をそのまま採って以て本校の修養目標と定め」た張本人だろう。曹洞宗、東大哲学科、座禅三昧となれば、「第一義」が採用される状況証拠は相当に強力で、禅問答を敢えて校是に採用したのではないのか。言語レベルの違いを無視した「第一義」は、禅問答にしばしば登場する頓智のような効果をもっている。「第一義」と書き、それを肝に銘じることによって、各人にとっての「第一義」を自覚してほしい、という願いを表現していると解することができる。学校教育の一つとして各生徒に自らの第一義を見出してほしいと言うためには、特定の内容をもつ校是ではなく、「自らの第一義を見出せ」という意味で「第一義」と書くのが効果的なのだと解釈すればいいのである。謙信の第一義が「諸行無常」と言う仏教の原理だとすれば、それをそのまま生徒に強いるのは酷というより、野暮でしかない。
 「雲は天にあり 鎧は胸にあり 手柄は足にあり」と謙信は述べたが、これなら座右の銘としてとてもわかりやすい。また、謙信から九代目の上杉鷹山の「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」も多くの人の座右の銘になっている。いずれもわかりやすい主張だが、それらに比べると「第一義」は一筋縄ではいかない、とてもひねくれた座右の銘なのである。禅問答のような文脈を前提にして考えないと、正しく理解できないことが示すのは、グローバルな主張ではなく、極めてローカルで特殊な主張だということである。
 1866年高田藩は長州に出兵し敗れる。帰藩後に藩校「脩道館」を急遽つくるが、慶應義塾が1858年創立であるから、随分と新しい。そのためか、脩道館を母胎にしながらも、榊原家よりは上杉家への偏愛、謙信への片思いが強く、それが校是に既に現われていたのではないか。それは林泉寺の扁額のみならず、最近の国宝「山鳥毛」の取得についても言えることである。越後の英雄謙信の遺物は春日山には唯一扁額の自筆のみとなれば、それをシンボルとして謙信の生き様を讃え、それを糧にしようということになったのではないか。こんな風な推測が正しければ、「第一義」は謙信を模範に人生を拓けという合言葉、題目のような(越後高田独特の)役割を持って使われてきたことになる。

 「第一義」を校是や標語にする学校は高田高校だけではない。その代表が成城学園で、創立者澤柳政太郎は、「所求第一義」(求むるところ第一義)を生涯の志としていた。「第一義」は本当のもの、一番大切なもの、根本にあるものを意味し、「所求第一義」は「究極の真理、至高の境地を求めよ」ということである。成城学園の建学の精神を表す言葉として学園の50周年記念講堂に掲げられている。高田高校とは違って、成城学園の「第一義」は謙信や仏教用語から離れ、通常の言葉の意味で使われている。では、その通常の意味はどこに由来するのか。
 「第一義」で忘れてならないのが夏目漱石の『虞美人草』。そこでは「人生の第一義」は何かという問いのもとに物語が展開される。そして、「人生の第一義は道義である」というのが漱石の答。そして、この答えが「第一義」の近代的な意味である。「第一義」とは、道義に裏打ちされて、真面目に生きることである。自分をしっかり見据えた生き方である。文明人にとって第一義に生きることは容易ではない。第二義、第三義で活動することもあり、それはそのまま生き難さとなる。そして、それが行き過ぎると悲劇となる。『虞美人草』では、小野、甲野、宗近の三人の対照的な生への姿勢が描かれている。この『虞美人草』の第一義が多くの日本人の第一義の意味となり、それが成城学園の標語にも影響していると思われる。(「第一義」を校是に決めた鈴木卓苗校長も『虞美人草』を読んでいたのではないか。高田中学には1915年頃在職したと思われ、『虞美人草』の初出は1907年。)
 その漱石が感銘を受け、『虞美人草』執筆に至る扁額がある。それは宇治市にある萬福寺総門(1693年建立)の第五代高泉和尚による扁額である。萬福寺は中国から招請された隠元江戸幕府の許しを得て開山したもので、和尚は書や詩文に長じた高僧。三門(山門)の前の総門を建て替えることとなり、その額字を書いたのが高泉和尚。84枚も書いた話は評判となり、高泉といえば「第一義」、「第一義」といえば高泉と言うほどになった。さすが高泉和尚で、その「第一義」は見事な能筆。黄檗宗では、明代に制定された仏教儀式が維持され、建造物も中国の明朝様式を取り入れた伽藍配置で、創建当初の姿そのままを今日に伝える寺院は日本では他に例がなく、代表的な禅宗伽藍建築群として、国の重要文化財に指定されている。初代隠元から第13代まで中国渡来僧が代々住持(住職)を占めた。
 他にも「第一義」はあちこちに登場する。例えば、鈴木大拙の『禅の第一義』(1917年)や島木健作の小説『第一義』(1936年)、『第一義の道』(1936年)がある。さらに、偶然に見つけたのだが、太宰治の書に「聖諦第一義」がある。謙信や高泉の書と対比しながら、彼がどのような心持でこの書を書いたのか様々に想像するのもまた一興か。
 こうして、校是の解釈は越後高田の「第一義」解釈と同じように流転してきたことになる。何とも意地悪な校是で、新しい「第一義」解釈が出れば、それに左右される運命を背負っていて、融通無碍な校是ということにもなる。厄介この上なく、敬して遠ざけておくのが怠け者の得策なのだが…世に杞憂の種が尽きずとつい感じ入るのも老人のなせる仕業か。