二つのPrincipia

 大学2年の夏休み前に図書館で見つけたのがラッセルのThe Principles of Mathematics。どんな風に読んだのかはっきり覚えていないが、数学に関する哲学とはこのようなものだと確信したのは確かで、同じ頃に読んだ田辺元の『数理哲学研究』との違いをはっきり憶えている。

 最初のPrincipia は夏休みが終わって見つけたPrincipia Mathematica 。何とも大きな本で、しかも三分冊。中を見れば記号だらけ。でも、英語は明解で読みやすい。授業でラッセルのパラドクスを知っていて、そのラッセルが著者の一人(もう一人はホワイトヘッド)、これは読まない訳にはいかないと思ってしまった。

 もう一つのPrincipiaは言わずと知れたニュートンのプリンキピア(Philosophiae Naturalis Principia Mathematica)。こちらは高校時代に名前だけは知っていたが、なぜかとても難しい本だと思い、それが未だに変わっていない。実際、読むには本当に難しく、読みたくない。私はニュートンの流率法を知らず、古典物理学の才能に欠けることがよくわかるのである。プリンキピアは正に奇跡の書物。敬虔なキリスト者ニュートンガリレオの異端を完成させたのである。

Principia Mathematicaは貴重書ではなく、普通の書架にあり、簡単に読めたが、ニュートンPrincipia の方は貴重書で、学生が許可なく読むことはできなかった。

 これが私の二つのPrincipiaの想い出。プリンキピアを古風に訳せば、「第一義」。第一義(=第一原理)を自分で見つけたい、知りたいと思うのは人の常だが、そんなタイトルの著作を残すことができるのはほんの一握りの人たちに過ぎない。

 

 最初のPrincipiaとの出会いのきっかけがラッセルの『数理哲学序説』(1954岩波文庫、既に1942に弘文堂から出版されていた)と大学2年の夏休み前に図書館で見つけた彼のThe Principles of Mathematics。どんな風に読んだのかはっきり覚えていないが、数学についての哲学を私の中に定着させたのはラッセルだった。そのためか、同じ頃に読んだ田辺元の『数理哲学研究』との違いは大きく、同じ「数理哲学」と呼ばれながらなぜこれほど異なるのかと疑問に思ったことをはっきり憶えている。高木貞治の『解析概論』で知ったデデキントの切断についての議論が長々と続くのだが、無知な私にもラッセルと田辺の議論が同じ事柄を扱っているようには到底思えなかった。後で知るのだが、この落差は論理実証主義と新カント学派の研究の違いにあった。私が感じた違いは記号論理学とカント風の認識論のいずれを基本にして哲学的な考察を行うかの違いであった。私がラッセルに軍配を上げたのは、私自身が圧倒的に論理実証主義にのめり込んでいたからである。夏休みが終わって、見つけたのがPrincipia Mathematica。何とも大きな本で、しかも3分冊。中を見れば小さな文字と記号だらけ。英語は簡単で読みやすくても、読了などできなかった。

 そこで、『数理哲学序説』の内容をかいつまんで書いておこう。まず数学のもっとも基本的概念である自然数列から始まり、自然数が定義される。ペアノは自然数の公理系をつくり、それを満たすものを自然数と定義したが、ラッセルはこの考え方に満足せず、個々の自然数を個物のクラスのクラスとして定義した。これによって自然数は純粋に論理的な慨念であるクラスに還元されることになった。一方、負数や有理数は関係概念として導入される。関係の理論はラッセルの論理思想のなかで中心的位置を占めるものである。この関係のなかで重要なのは順序をあたえる関係。その関係の特別なものが系列をあたえる関係である。そして、もっとも重要なものが自然数系列である。自然数系列は系列を一般に定義せずに、ペアノ風に初項0と後続者関係(successor relation)が与えられれば構成できる。ラッセルは数学的帰納法をこのような関係概念から定義している。それには与えられた任意の関係から構成される祖先関係なるものを媒介にすることが必要である。この祖先関係の定義も既にフレーゲが考えていた。自然数は上述の基数としての性質とともに、事物の順序を定める序数としての性質をもっている。序数や整列系列の概念そのものは集合論創始者カントールが確立していたものだが、ラッセルは序数をはるかに拡張した関係数について、加法・乗法等の算法を定義した。

 ラッセルの実数理論はデデキントの切断の考えに基づくが、複素数や極限等の議論は集合論を基礎にした論法と本質的には同じである。無限基数と無限序数についての叙述もカントールの理論を基礎にしている。無限集合の領域で独自な点となれば、無限公理と乗法公理。また、ラッセルの論理学的貢献となれば、命題関数(propositional function)と記述の理論(theory of description)である。命題は伝統的に主語と述語が「である」で結ばれる形式として考えられ、名辞の論理学として成立していたが、それがフレーゲによって述語の論理学に変わる。ラッセルはその基本形式を命題関数と呼んだ。  

 ラッセルの数学基礎論の究極の目的は、フレーゲに由来する自然数の論理学的定義から始めて、数学を論理学に還元することであった。だから、ラッセルのこの主張は論理主義と呼ばれる。つまりPrincipia Mathematica のPrincipiaとは論理学のPrincipiaということになる。

 

 もう一つのPrincipiaは言わずと知れたニュートンのプリンキピア(Philosophiae Naturalis Principia Mathematica)。Principia Mathematica のPrincipiaとは論理学のPrincipiaだと述べたが、ニュートンのPrincipiaは数学の原理ではなく、数学的な形式をもつ自然哲学(つまり、物理学)の原理という意味。高校時代に名前だけは知っていたが、なぜかとても難しい本だと思い、それが未だに変わっていない。実際、読むには本当に難しく、読みたくなく、だから、未だに読んでおらず、解説書で済ませている。私はニュートンの流率法をよく知らない。私も含め、普通は極限(limit)を使った微分法を学んだためか、無限小(infinitesimal)概念や流率(fluxion)概念がしっくりこないのである。 

 プリンキピアは正に奇跡の書物。敬虔なキリスト者ニュートンガリレオの異端を完成させたのである。確かに錬金術に関心をもち、造幣局長官もしたが、ガリレオと違ってニュートンは敬虔なキリスト教徒だった。それが証拠に彼の晩年の著作は『ダニエルの予言とヨハネ黙示録に関する考察』という聖書解釈だった。

 ニュートンの「プリンキピア」は三巻から成っている。第一巻は、ユークリッドの『原論』のように、定義からスタートする。ニュートンは、質量、運動量、静止力としての慣性、外力、求心力などを、明解に定義していく。そして、それらの基本的概念に基づいて有名な三つの運動法則、いわゆるニュートンの法則を提示する。運動の第一法則は「慣性の法則」で、全ての物体は外力の作用を受けない限り、静止または等速度運動の状態を続けるというもの。第二法則は運動の変化は外力の大きさに比例し、力の加えられた直線方向に起こるというもの。そして、第三法則は二つの物体が相互に及ぼす力、作用と反作用は等しく、方向は反対になるというもの。最初の二つの法則は既にデカルトらによって唱えられていたが、第三法則はニュートンが初めて述べたもので、彼の力学上の業績でとりわけ独創的なものだった。三つの法則を厳密に数式で表わし、論理的に系統立てたのはニュートンが最初だった。第二巻では流体力学を論じて、先輩デカルトの渦動宇宙論を徹底的に批判している。

 ニュートンの最大の業績である万有引力論が登場するのは第三巻。そこでニュートンは、二つの物体はある力をもって相互に引き合うこと、そして、その力はその物体の質量に正比例し、物体の間の距離の二乗に反比例するという相互引力の法則が成り立つと主張する。そして、ニュートンはそれら全てを総合し、引力理論に基づいて力学を宇宙全体に適用できる理論にした。

 こうして、ガリレオデカルトらの継続的な研究がニュートンによってまとめられたのだが、その内容を大陸に伝えるのに貢献したのがシャトレ侯爵夫人の『プリンキピア』の仏訳である。数学がすこぶるできた侯爵夫人の愛人の一人がヴォルテールヴォルテールニュートン物理学の解説書『ニュートンの哲学』を著すが、数学と物理学の部分は侯爵夫人が助言した。この二人によってフランス人もニュートン古典力学を知ることになる。

ガリレオデカルトニュートンらの本は当時の他の本に比べると、貧弱な装丁である。例えば、ニュートンと同時代のキルヒャーの本と比べると、その違いは明白。教会の庇護があれば、装丁は豪華で、図版も見事。但し、内容は装丁とは無関係。