ナンテンが木ではなく、草だと言われると不思議な気がする人が多いだろうが、常識を疑う前に、ナンテンに関する常識として、主な種類と特徴を列挙しておきましょう。
赤南天 実は赤色で実付きが良い。葉は紅葉を楽しめる。
白南天 実は白色や薄黄色で大きめ。赤南天と異なり、葉は常緑。
姫南天 葉が小さく実が少ないという特徴がある。生け花によく使われる。
お多福南天 葉の色が黄色から赤へと徐々に変化する。樹高が低く、花壇や寄せ植えに最適。
ナンテンのこれらの種類は同時に生まれたわけではなく、自然選択、人為選択を通じて歴史的に生まれてきました。これはナンテンに限らず、どの生物にも言えることで、生物はみな自然選択による適応の結果ということになっています。
さて、私たちの常識を段階的に確かめていきましょう。私たちが植物を見る時、習慣的に草と木の違いを前提にしています。その前提に慣れ過ぎているためか、どんな植物も草か木のいずれかだと思ってしまいます。でも、海や川、湖や沼にも多様な植物が棲み、微生物やカビ、コケなどを考えると、植物の世界はそれ程単純ではなく、実に複雑であることに気づくのです。
それでも、私たちの二分化思考はさらに進みます。それが動物と植物の区別、仕分けです。生き物は動物か植物のいずれかという区別です。でも、実のところ、動物でも植物でもない生物はたくさん存在するのですが、私たちは生物の世界は動物と植物から成り立っているとつい断定しがちなのです。
そこで、人は生物と無生物の区別を次に持ち出し、どんなものもそのいずれかだと考えるのですが、これも実はそれほど明瞭ではないのです。「生物でも無生物でもないもの、生物でも無生物でもあるもの」という矛盾したような表現が当てはまる対象は未知の宇宙探査の目的にさえなっています。
この辺まで私たちの経験世界の分類を考えてくると、「ものとこと」、「ものと概念」の違いも似たようなもので、どちらとも言えない例があるとつい思いがちです。でも、「ものとこと」の違いは世界の中の対象の間での違いではなく、世界をどのような枠組みで考えるかという時の表現する側の違いです。その違いを「個物と事件」、「個物と概念」とでも表現すれば、異なるカテゴリーの対象の比較であることがはっきりするでしょう。
似たような違いが「固有名と一般名」ですが、これは同じ言語レベルの違いですから、「生物と無生物」に似ています。例えば、「日本」は固有名詞であり、かつ一般名詞としても使うことができます。
*論理(logic)に関して:古典論理は第一階述語論理(first order predicate logic)として形式化され、論理システムとしてコンピューターでも使われていますが、概念の外延が曖昧でなく、境界がはっきりしていることが前提されています。一方、二値性ではなく、多値性を認めるのが多値論理、ファジー論理(fuzzy logic)で、曖昧な境界をもつ外延に関する論理システムです。魚類から爬虫類への進化を認めるなら、その進化の途上で魚類とも爬虫類ともつかない生物がいた筈で、その生物は半ば魚類、半ば爬虫類ということになり、そのような存在に関する論理として多値論理が使われることになります。