物質と時空が異なるのは当たり前だと私たちは思っています。それは現在の私たちだけでなく、遥か昔のギリシャ時代も同じだったのです。物質と時空が異なることを前提にする原子論はパルメニデス的な不変の哲学を維持しながら、運動変化を説明しようとする大変優れた仮説で、ギリシャ哲学の中でもっとも優れた科学理論の一つだったのです。
「虚空(真空)」は問題を孕む存在ですが、それによって原子の運動や衝突が理解可能になり、パルメニデス哲学で否定された変化を救う重要な役割を担ってきました。原子論はその後の科学革命で再び脚光を浴び、そこから化学的原子論が生み出され、さらに物理的原子論は統計力学の中心的仮説となりました。でも、原子の実在は仮説のままで、それが確証されたのは20世紀に入ってからでした。この歴史的な走り書きだけでも、他の物質仮説(四元素説、質料形相論、カロリック説等々)と比べ、自然を説明する仮説として格段に優れた考えであることが仄見えます。
原子論は物質の不変的性質を原子のもつ性質に還元し、原子の集合である物質が連続的な時空を運動すると主張します。連続的な時間、空間は限りなく分割でき、その中を原子が運動し、互いに衝突を繰り返します。不可分の原子は一定のサイズをもつ対象ですから、物質と時空では分割と結合の仕方が異なっています。「分割と結合の仕方が異なる」ことは二重基準(double standard)になっていることを意味しています。でも、原子論は物質と時空に関する分割の二重基準を採用することによって、運動変化を整合的に説明するのです。ギリシャの原子論仮説が現在でも私たちを魅了し、私たちが納得する理由はこの点に尽きます。古典力学にも原子論の構成が強く影響しています。古典力学は物質ではなく運動についての物理理論なので、二重基準の一方の「物質の有限分割可能性」は表面には出てきません。力学では物体の運動の法則と物体が運動する時空の二本立てになっており、時空に関する前提を明示的に表現すれば、「時空は連続的」となります。でも、非古典的な量子重力理論では二重基準そのものが正しくありません。
現在でも物質は原子論的に有限の範囲でしか分割できないものと考えられています。ただ、どこまで分割できるかは誰にもわからず、有限分割の最後の段階は未定のままです。しかし、それが無限に続き、実数のサイズにまで至るとは誰も思っていません。というのも、それが可能なら、物質はサイズのない点にまで到達し、「サイズのない物質」という点を時空の点の場合と同じように想定しなければならなくなるからです。「サイズのない対象」は力学モデル内で「質点(point particle)」として意味をもっていますが、「サイズのない物質」は力学モデル内でも意味をもちません。運動の記述に物体のサイズは不要ですが、化学的性質の記述・説明に物質のサイズは不可欠です。
原子論の二重基準の内容をまとめましょう。物質は有限分割可能なもので、最小の単位をもちますが、時空は無限分割可能で、サイズのない点が最小となります。
*物質と時空の分割には有限、無限以外にも違いがあります。例えば、時空は任意のサイズにいつでも分割可能ですが、物質はそうではありません。分割が何に依存するかによって分ければ、時空の分割が認識的要素を多く含むのに対し、物質の分割は実在的要素を多く含みます。