残る校歌、消える校歌

 妙高高原北小学校と妙高高原南小学校が統合されたのはつい最近です。私が通っていた新井小学校は校舎がすっかり変わっても、そのまま存続しています。故郷から消えたもの、残ったもの、生まれたものの「もののあわれ」を小学校に、それも校歌を通じて感じ取ることができます。

 妙高高原小学校には新しい校歌(高木いくの作詞作曲)が生まれたのですが、古い校歌はこのまま消えてしまうのでしょうか。統合前の妙高高原南小学校の校歌は堀口大學作詞、妙高高原北小学校の校歌は小杉放庵作詞です。

 新井小学校は校歌も教育目標もそのままです。私が小学生だった頃も「教育目標」と呼んでいたかどうか定かではありませんが、教育目標は今も「よい子 つよい子 できる子」です。新しい妙高高原小学校の教育目標は「なかよく かしこく たくましく」で、なんとほぼ同じで、少々複雑な気分です。教育目標について子供の頃に説明された記憶などないのですが、きちんと説明しようとすると、私など匙を投げるしかありません。それでも、不変の教育目標なのです。お題目としては見事で立派な旗印と言えます。

 冬の季語のサザンカ山茶花)はツバキ属の常緑広葉樹で、童謡「たきび」に登場します。その「たきび」の作詞は巽聖歌。彼こそが新井小学校の校歌「頸城野の光あつめて」の作詞者です。そして、この校歌の作曲は何と「海行かば」の信時潔。さらに、旧妙高高原南小学校の校歌「関川児童の歌」の作詞は堀口大學で、文化勲章受章の詩人。

 堀口は東大近くで生まれ、「大學」と名付けられました。外交官の父が朝鮮に赴任したため、父母の故郷長岡に移り住みます。旧制長岡中学卒業後、上京し、与謝野鉄幹の主宰する「新詩社」に入門。新詩社で知遇を得た佐藤春夫と共に慶應義塾大学文学部に入学。昭和20年7月、妙高市関川にある妻マサノの実家畑井家に疎開。天然記念物の大杉がある関川天神社近くが大學の疎開の地です。当時の妙高南小学校の校歌の作詞を地域の人々に頼まれ、その歌碑が今も残っています。その後、一家は関川から高田の南城町に移り住み、4年ほど過ごしました。

 「海行かば」の作曲者は山田耕筰と様々な意味でライバルだった信時潔。山田はキリスト教の伝道師の子、信時は牧師の子として生まれます。そのため、賛美歌が彼の音楽の出発点です。信時は山田と同じく東京音楽学校出身で、ドイツに留学し、ドイツ古典派、ロマン派の音楽を学びました。雅楽調の「君が代」と違って、「海ゆかば」は正統的な西洋音楽に基づいて1937年に作曲されました。彼は1940年に慶応義塾塾歌を作曲していて、音楽に疎い私でも二つの曲がよく似ていて、重なる部分がとても多いと感じられるのです。その理由を探るうちに気づいたのは、信時は私の小学校の校歌の作曲者でもあったことでした。小学生の私は信時が作曲したことなどまるで知りませんでしたが、何度も歌った校歌の残響が脳内に残っていたのかも知れません。