霊魂や怨霊と日常世界:パルメニデスの仮説とその帰結

 仏教の無常観や万物流転とは正反対のパルメニデスの哲学は次のような思考と存在の関係に関する基本仮説からなっています。

対象を知ることができるなら、それは存在でき、その逆も成立する。

対象が存在しないならば、それは存在できず、その逆も成立する。

これら二つの仮説から、「存在する」⇔「存在できる」⇔「存在を知る」という同値関係が導き出され、いわゆる様相(modality)の非在が明らかになります。さらに、そこから次のパルメニデスの哲学的主張が導き出されます。

生成消滅はなく、運動変化はなく、質的差異はなく、そして多数性もない。

 恒常観を示すこの命題がどのように導出されるかは省き、現代的な観点から彼の仮説を見直してみましょう。存在、存在可能性、認識可能性の間の区別が否定されるのがパルメニデスの世界で、物理世界を相空間(Phase Space)で捉えた数学的モデルと基本的に同じだと考えることができます。

 絵巻物に描かれた対象のように、空間内のものはすべて静止していて、運動変化は動いている姿では存在しません。このモデル内には変化がなく、これが運動変化は幻覚だというパルメニデスの主張だと考えることができます。過去のもの、現在のもの、未来のもの、あるいは可能なもの、現実のもの、語りうるものの区別はこのモデルにはありません。すべては「ある」という述語で表現され、存在しないものは描かれていません。

 でも、このモデルを使っている物理学では実際の変化を扱っています。そして、このモデルを物理世界に適用して変化を実際に説明しています。このモデルでの変化の説明は私たちの経験を使って行われます。例えば、4次元の世界の軌跡を3次元で考えた場合、その軌跡上を動く運動として変化を経験することになります。3次元の世界で対象が運動する様子は「過去から現在まで軌跡が描かれ、未来はこれから描かれることになる」ように描写されますが、4次元の世界ではこのような区別はなく、その必要もありません。これは次のように表現できるでしょう。

4次元世界の記述 ⇔ 3次元世界の記述+記述者の視点をもつ運動変化の経験

 私たちは左右、前後、上下は移動できても、時間上の移動は不可能です。こうして、「運動変化が幻覚に過ぎない」ことは、「次元(時間軸)の還元を補完するために運動変化が必要である」ことだと解釈できることになります。完成された変化、完結した運動が記述・説明されるべきものであり、それは時間軸を加えることによって可能となります。運動変化を完全に把握するには完結した運動変化でなければならず、運動変化の途中の状態では不十分です。次元を増やせば変化はなくなり、それゆえ、変化は時間軸を補完するための方便に過ぎなく、したがって、変化は幻覚に過ぎないのです。私たちは2次元に描かれた絵画を見て奥行きを理解でき、さらに遠近法を使うことによって3次元の構造がわかります。これは私たちが3次元を知っているからです。同じように3次元で運動を経験することによって私たちは時間経過がわかります。遠近法と運動はいずれも高次の次元で表現できるものを巧みな工夫によって部分的に表現していると考えることができます。つまり、私たちの運動の経験は軌跡としての運動の不完全な、私たち流の表現と考えることができます。遠近法を使った絵が描かれた対象のすべての側面を同じ画面に表現できないという意味で不完全だとすれば、運動経験もすべての運動の特徴を理解するにはやはり不完全なのです。運動変化を完全に理解するには運動の始まりから終わりまでを捉えることが不可欠なのです。

 何かとても難解な話のようになってしまいましたが、私が理解したパルメニデスの主張のアウトラインです。「完結した運動は静止したものである」というのがパルメニデスの主張だとまとめることができます。

*それにしてもパルメニデスの世界は私たちが考えるダイナミックな冥顕の世界とは随分違います。