劣勢のパルメニデス的世界観に味方しよう

 argument, inference, proofという英語の単語はみな似た意味をもっていて、日本語では論証、推論、証明などと訳されています。そして、いずれも幾つかの前提や仮定から論理規則を使って結論を導き出すことを指しています。その典型例が数学のテキストに登場する定理で、定理は公理から演繹的に証明されるのが普通です。それらの証明を練習問題として行った想い出が誰にもあるのではないでしょうか。そして、その想い出は苦痛や嫌悪、さらには退屈を伴うという人が多い筈です。数学嫌いと呼ばれる人たちだけでなく、理屈を捏ねる人たちの評判は決して芳しいものではありませんが、それがパルメニデス的世界観が不評であることの理由になってきたように思います。
 ターレス、ヘラクレイトスパルメニデス、そしてゼノンと並べば、初期のギリシャ哲学史の定番の哲学者たちということになり、それなりの説明がなされてきました。ターレスはさておき、ヘラクレイトスパルメニデスは二つの対立する哲学を展開したことで知られています。そして、動と不動、変化と不変というわかりやすい対立によって、その根本的に異なる主張が対照的に語れてきました。いつの間にかどこでも同じような説明と知識としての哲学史は当然ながら胸が躍るようなものではなくなってしまいました。では、彼らの仕事の真骨頂はどこにあったのでしょうか。
 論証や証明はできるだけ少ない、しかも一般的な仮定のもとで行われるのが望ましいことになっています。そのような論証や証明であれば俯瞰的な観点を反映できることになりますが、それを最初に認識し、具体的に導入したターレスは一流の幾何学者となり、その幾何学によって因果的な世界から独立した数学的世界の存在を示すことに成功しました。彼は因果的な世界から持続する変化といった本質的と思われていた特徴を取り除いたのです。彼は実際に「ターレスの定理」と呼ばれる一群の命題を証明したと言われています。彼に始まる幾何学は、その後ユークリッドによってギリシャ数学の主役として『原論』としてまとめられることになります。
 ターレスやユークリッドと違って、哲学を自らの第一の仕事にしたパルメニデスの述べられ方は彼らとは随分と違っています。幾何学的な見方を基礎に置いて世界を非因果的に説明しようとした最初の哲学者がパルメニデスだと言われるのです。そのため、彼の形而上学は徹底して俯瞰的、非因果的であり、持続的な運動変化は単なる仮象に過ぎない主張であると捉えられたのです。その運動変化の否定をより具体的に示そうとしたのが彼の弟子ゼノンで、それがゼノンのパラドクスとよばれるものでした。世界のすべてが既に起こったかのように扱われ、起こったもの、起こるもの、起こるであろうものが、同じ存在として絵巻物のように列挙併描されるというのがパルメニデスの世界です。変化に関わるような、例えば「可能性」といった概念はすべて否定され、様相や時制が存在しない世界がパルメニデスの世界となります。これを別な風に表現すれば、変化を表す「可能性」といった表現はすべて昇華され、様相や時制も「である」だけの世界に還元された世界がパルメニデスの世界、ということになります。彼の形而上学は決して荒唐無稽ではなく、その哲学的アイデアは原子論と同じように現在まで生き残り、ブロック宇宙モデル(Block Universe Model)として生き返っています。世界のすべてが展開されたものとして捉えられ、それを全体として俯瞰したのがパルメニデスの世界なのです。展開された世界とは絵巻物をすべて広げた世界であり、例えば、運動がその軌跡として始まりから終わりまでが同一画面に表現される世界なのです。
 ゼノンのパラドクスを知る人は沢山いますが、それが正確に何を述べているかということになると専門家の間でも意見が分かれるほどで、現在でも哲学への憧れをかき立てるに十分な主題となっていて、好奇心の格好の対象であり続けています。運動に関わる彼のパラドクスは、運動自体の分割可能性、それを表現する線分の分割可能性、表現された運動についての論証が巧みに混同されることによって生じています。運動が分割可能なのか、運動表現が分割可能なのか、論証で使われる無限概念が適切なのか、これらの問題を丁寧に解きほぐしていけば、どこにも矛盾などないというのが標準的な解答です。ゼノンのパラドクスの標準的な解決は解析学を使ったものですが、無限、無限小、極限等の概念が含む問題を鮮明にしようとすれば、パラドクスをSupertaskとして表現し直し、そこで考え直す必要があるのではないでしょうか。
 因果的でない数学を使って因果的な世界をどのように理解し、説明するかは何も問題を孕んでいないように見えながら、実は重要な問題を多く抱えていることがその後の2,000年以上にわたる知的な探求の中で次第に露呈されていくことになります。この過程は実に魅力的で、人間の知的な好奇心を刺激し続けてきました。パルメニデス形而上学的な剛腕を振るって解決しようとしたのは「自然の数学化」と呼んでもいいような問題であり、ゼノンのパラドクスによって、それが論理的な問題だけでなく、無限分割可能性を通じた無限の問題をも含むことが明らかになりました。無限の問題を解決する試みはガリレオによって再度なされ、数学を巧みに使うことによって実行され、ニュートン古典力学を表現する解析学としてまとめ上げることになります。自然の数学化が引き起こす問題とその解決は数学研究そのものを大いに刺激しながら、現在もまだ続いています。
 にもかかわらず、ヘラクレイトスの哲学に対してパルメニデスの哲学に味方し、それに加担しようとする人は多くありません。人気はヘラクレイトスの方がずっと高いのです。人は変化を好み、不変が退屈至極だという思い込みをもち、さらには諸行無常こそ真理だといった堅い信念が植えつけられているようなのです。私にはそれこそが誤解を生むように思えて仕方ないのです。二人の哲学は真理の二つの側面を強調しており、対立するのではなく両立するものであり、その両立を総合させることができるものなのです。ですから、一方の評判が他方より高いというのはとても奇妙に思われるのです。
 分割された区間内での変化を因果的な原因と結果として理解するには、原因の時点と結果の時点が共に区間内にあり、原因と結果の間の時点での変化が軌跡として表現されている。持続する変化を前提にした原因と結果の対、そしてその表現とが重ね合わされることによって、ヘラクレイトスが強調した点、パルメニデスが強調した点が過不足なく総合されるのです。
 最後に、知覚され、感じられる変化は直接の経験であり、時間が流れる中での生々しい現象であるという直感的な信念と、動く、変わる、落ちる、跳ぶのは対象であり、その対象の運動は時間的な経過をもっているという信念は、表現される変化、表現する装置、変化を正しく解釈する道具などから導き出される知識としての変化より優位に立ってきたのは明らかな事実です。でも、そのことと二つの形而上学が同等に総合されるべきことは別のことです。