数学は20世紀にかけて、ヒルベルトによる形式主義的な整備が進み、フレーゲらの論理学の形式化と共に、数学の基礎に関する研究が熱気を帯びました。そして、生み出された一つが公理的集合論で、集合論は数学の基礎づけに必須の装置だとみなされました。集合論自体も20世紀には様々に公理化され、公理を満たすモデルが集合論の解釈とされ、具体的に研究されることになりました。理論で証明される定理はすべてのモデルで真になります。そのような定理からなる世界が集合論の顕の世界、事実の世界だとすれば、幾つかのモデルでしか真にならない言明を含む世界が集合論の冥の世界と考えることができます。
集合論の個々のモデルでは冥と顕が入り混じり、例えば、有名な「連続体仮説」はあるモデルでは真に、別のモデルでは偽になり、その結果、連続体仮説は集合論の公理系からは論理的に導出できない、つまり独立しているということになります。これがゲーデルとコーヘンのモデルから得られた結果です(自然数と実数の間の濃度はありません)。
連続体仮説は特定の数学的存在には言及していませんが、「到達不能数」や「可測数」と呼ばれる大きな基数の存在は冥界の怨霊や悪霊、鬼のような存在に似ていて、どの集合論のモデルにも存在している訳ではありません。ですから、それら巨大な基数は仮説に過ぎない、つまり、顕界の存在ではないのです。
顕界は真理だけの世界で、それが不変で、普遍の世界であり、ある意味で何とも退屈な世界なのです。でも、冥界は選ばれるモデルに応じて真偽が変化する波乱万丈の世界と言えます。神仏習合の冥顕の世界は神や仏が存在する=見える、存在しない=見えない、の違いが強調される世界であるのに対し、集合論のモデルは見える、見えないではなく、存在する=知る、存在しない=知ることができない、の違いが基本になっています。「見える、存在する、知る」の関係は意外に近く、ほぼ同じなのが私たちの生活世界です。そこでは見るも知るも、わかることに直接的に繋がっています。
演劇や小説は現実のものではなく、冥のものです。それらは作りものです。とはいえ、誰もそれらが単に偽物に過ぎないとは思いません。むしろ、単なる事実より有意味だと思う人が多い筈です。集合論のモデルもそれに似ています。モデルですから数学的に証明された事実ではありません。それでも、集合論の未知の言明に対してモデルの冥の存在が探求の鍵となるのです。個々のモデルに対応するのが能や歌舞伎の具体的な演目でしょう。能や歌舞伎には中世日本ではポピュラーな超自然の存在、怨霊や鬼が登場し、人々と交わり、独特の世界が現出されます。誰もそれが単なるフィクションで、娯楽に過ぎないとは考えません。虚や冥の世界は現実の世界と入り混じって、現実の世界を脚色し、真なる世界を生み出すのです。これは小説の世界も同じです。誰かがつくった物語は事実を生み出し、現実の世界に匹敵します。これは科学の仮説が事実の世界の事実を変える可能性をもつのと基本的に同じことです。 冥と顕、あるいは見えない世界とこの世界といった違いが混淆、習合しているのが中世世界の特徴、あるいは日本の特徴だと述べました。でも、見えないものを使って見える世界を説明するのは怨霊や悪霊、精霊や聖霊によってこの世界を説明するのとよく似ていて、それは日本だけではなく、そして現在でもよく行われている、何かを知るための常套手段です。
無知の一つの解釈が未知でありそれを既知のものにするのが科学的追及となってきました。そこで、A→Bが既知だとしてみましょう。Aが未知、Bも未知のとき、Aを既知の真理だと仮定するなら、Bが導出でき、Bはその結果として既知になります。つまり、Aを仮説として既知とするなら、Bも既知となるのです。冥は仮説のようなもので、それを仮説として要請するなら、それは顕とみなされ、他のものを顕とすることができるのです。冥と顕は曖昧に混淆してしまう場合が多いのですが、仮説、観察言明、真偽などは混淆しておらず、むしろ、集合論の連続体仮説のように組み合わせることによって、つまり混淆させることによって、様々な結論を導き出すことができたのです。
見えないものを仮定することによって、見えるものが増え、見える色が増え、見える形が増えるなら、見えないものによってより豊かな観察結果が得られることになります。