国歌、軍歌、それとも鎮魂歌、はたまた準国歌?(2)

 『古今和歌集』(905年)の「我が君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで」は「詠み人知らず」となっていますが、文徳天皇の皇子惟喬(これたか)親王に仕えていた木地師が詠んだものでした。そのため「詠み人知らず」という扱いになりました。『古今和歌集』で貴族たちの慶賀の歌として紹介された歌は、その後に編纂された『新撰和歌集』(紀貫之撰)や『和漢朗詠集』にも転載され、名歌だということがわかります。そして、「日本の象徴である天皇陛下のもとで、この国の平和な治世がいつまでも続きますように」というのが「君が代」の歌詞の意味だというのが現在の理解となっています。

 さて、時代を遡って、聖徳太子聖武天皇国分寺東大寺大仏となれば、仏教による国家統治、いわゆる鎮護国家の思想が思い起こされます。今様に言えば、その思想は仏教原理主義とも言えます。

 まず、『続日本紀』を見てみましょう。749年2月22日、陸奥国より初めて黄金が献上され、4月1日には聖武天皇東大寺行幸し、造営中の盧舎那仏の正面に対座しました。そこで左大臣橘諸兄が勅を受けて、仏前に天皇のおことばを表白、続いて中務卿石上乙麻呂が長文の宣命を読み上げたたのです。この宣明は『続日本紀』の宣命の中で最長でした。これが「陸奥国出金詔書」で、同日、越中国大伴家持従五位下から従五位上を授けられます。

 家持はこれに感動し、5月12日家持の長歌中最長の「陸奥国出金詔書を賀く歌」と反歌三首を完成させます(『万葉集』巻十八「賀陸奥国出金詔書歌」(『国歌大観』番号4094番))。

 「陸奥国出金詔書」によれば、「陸奥国の国守で、従五位上百済王敬福が、管内の小田郡に黄金が出ましたと申し、献上してきた」とあり、百済王敬福はこの日に従三位を授けられています。そして、この長い詔勅の中に大伴・佐伯氏の「海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍」が先祖の功績として述べられています。大伴家持の生きた時代は内乱の危機をはらんだ政治的動揺の時代でした。聖武天皇は、こうした事態を憂え、救いを仏教に求め、仏教布教のシンボルとして東大寺大仏の建立を始めます。そのさなかに、奥州で金が発見され、大仏建立のために寄進されることになったのです。喜んだ聖武天皇は、東大寺に赴いて、宣命を発し、黄金の発見が皇祖の恵であることを述べ、人民にその恵を分かち与えるとともに、臣下の労をねぎらったのです。その際に、大伴、佐伯の二氏に対して、天皇への忠誠をあらためて訴えました。大伴、佐伯の両氏は、古くから皇室の「内の兵」として、特別な家柄でした。物部氏が国軍を統括するものであるのに対し、この両氏は天皇の近衛兵のような役柄を勤めてきました。この内乱の危機をはらんだ時代を憂えた天皇は、あらためて両氏に忠誠を求め、宣命の中で次のように表現しました。

 「大伴佐伯の宿禰は常もいふごとく天皇朝守り仕へ奉ること顧みなき人どもにあれば汝たちの祖どもいひ来らく、海行かば水浸(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍王の辺にこそ死なめのどには死なじ、といひ来る人どもとなも聞召す、ここをもて遠天皇の御世を始めて今朕が御世に当りても内の兵と心の中のことはなも遣はす(『続日本紀』)」

 この時、家持は越中にいましたが、使者を通じて宣命贈位を知ります。感激した家持は、一遍の長編の歌を作り、天皇の期待に応えました。これが『万葉集』にある「賀陸奥国出金詔書歌」です。

 この歌の中には、大伴氏の伝統を背負った家持の自負が鮮やかに表れています。古代の氏族の意識の一端に触れることができます。上記の宣明に対応して「海行かば水漬(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍大王の辺(へ)にこそ死なめかへり見はせじ(海に行ったならば 水に漬かった屍(死体)になり 山に行ったならば 草の生えた屍になって 天皇の お足元で死のう 後ろを振り返ることはしないぞ)」と述べています。「詔書を賀く歌」と題している通り、天皇詔書そのものを讃え、詔書の内容をところどころ引用しながら、皇室の尊厳と伴造としての一族の忠誠を高らかに歌い上げています。詔書そのものには、聖武天皇が自らを仏の奴とみなし、仏教への言及があるのですが、家持の歌は『古事記』にあるような古代のイメージに占められています。

 このような経緯を見てくると、天皇家と大伴家の主従関係が再確認され、大仏建立を通じた鎮護国家への歩みの一端が浮かび上がってきます。そして、そこに「海行かば…」の表現が登場することがわかります。この歴史的な表現が昭和の時代に「海行かば」という歌の歌詞として使われることになります。