台風到来の終戦記念日(あるいは敗戦記念日)になったが、78年前の正午に放送された「終戦の詔勅」、いわゆる玉音放送は分かりにくい表現であるとはいえ、お詫びと受け取れる部分がある。その部分を挙げてみよう。
「朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ (私は日本と共に終始東アジア諸国の解放に協力してくれた同盟諸国に対して遺憾の意を表せざるを得ない。前線で戦死した者、公務にて殉職した者、戦災に倒れた者、さらにその遺族の気持ちに想いを寄せると、我が身を引き裂かれる思いである。また戦傷を負い、災禍を被って家財職業を失った人々の再起には、深く我が心を痛めているところである。)」
『文藝春秋』(2003年7月号)に加藤恭子氏による「封印された詔書草稿を読み解く」(『昭和天皇「謝罪詔勅草稿」の発見』文藝春秋、2003)によれば、詔書草稿は昭和23年6月から28年末まで宮内庁長官を務めた田島道治氏が保管していたもので、昭和天皇ご自身による1948年の秋から冬にかけて書かれた謝罪詔書草稿。お詫びの部分だけ挙げてみる。
「屍(しかばね)を戦場に暴(さら)し、命を職域に致したるもの算なく、思うてその人及び遺族に及ぶ時、まことにちゅうだつの情禁ずる能(あた)わず。戦傷を負い戦災を被(こうむ)りあるいは身を異域に留められ、産を外地に失いたるものまた数うべからず。あまつさえ一般産業の不振、諸価の昂騰、衣食住の窮迫等による億兆塗炭の困苦は誠に国家未曾有の災おうと云うべく、静にこれを念(おも)う時憂心妬(や)くが如し。朕の不徳なる、深く天下にはず。(屍を戦場にさらし、また戦場で命を落とした人々は数えることもできず、死者とその遺族に思いを致すとき、真に心痛の思いを禁じえない。また戦傷を追い、戦火を被り、あるいは異国の地に抑留された人たちや外地で財産を失った人々も数え切れない。その上一般産業の不振、諸物価の高騰、衣食住の窮迫などによる数え切れないほど多くの人々の塗炭の苦しみは、まさに国家未曾有の災いというべきである。静かにこれらを考えるとき、心配の炎は身をやくようである。私の不徳で、深く天下に恥じる。)」
敗戦の責を一身に負い、自己を責め苛み、国民に率直に謝罪しようとする天皇の姿があると考えるのが加藤氏だが、敗戦の責任を取って退位するわけにはいかず、国民諸君も協力して国威を回復せよと述べているのだ、という反対の解釈もある。そのような論争はさておき、私には日本の代表としての天皇と個人としての天皇の違いが上の二つのお詫びの違いになっている気がしてならない。国家はなかなか謝らず、お詫びなどしない。ロシアもウクライナも個人のように互いに詫び合っていたなら、今のような戦争にはなっていなかった筈である。お詫びや謝罪は圧倒的に法人より個人の方が巧みで、優れている。だが、特に国家は他の国家に対して謝るのがすこぶる下手である。
私には戦争体験がない。戦時に様々なことを体験し、苦しみを知っている世代の我が恩師が「彼が謝っていたら…」と呟いていたのを思い出す。戦争を知る世代が昭和天皇自身からお詫びを聞いたならどのような気持ちになったろうか。多くの人たちがその謝罪を受け入れたのではないだろうか、というのが私の推測。だが、現代史はその答えを教えてくれない。