出雲と大和、そして「海行かば」

 戸隠からスタートし、妙高にまで話が及んだが、何とも隔靴掻痒な内容で、私自身より自由に古代を思い描いてみたい気持ちが嵩じてしまった。こうなると、それを避けることができない。私の生まれた「小出雲」を好奇心の起点にして、私が生まれた場所はどんな場所だったのかを突き止めようということになり、そのスケッチが以後の話である。

 ところで、『日本書紀』成立1300年記念の特別展「出雲と大和」が東博で開催され、日本の正史『日本書紀』から青銅器や石仏まで日本古代史料が展示されている。日本最古の歴史書の一つ『日本書紀』が編纂された年から、2020年(令和2年)でちょうど1300年。それを記念し、島根県(出雲)と奈良県(大和)の共同開催の展覧会は私の疑問を解く格好の鍵となってくれた。

  『日本書記』は神代から697年までを記した歴史書舎人親王が中心となって編纂し、養老4年(720)、元正天皇へ奏上された。『日本書紀』の冒頭に記された国譲(くにゆずり)神話によると、出雲大社の神であるオオクニヌシは「幽(ゆう)」であり、神々や祭祀の世界を司るとされている。一方、天皇は大和の地で「顕(けん)」であり、現実の政治世界を司るとされ、出雲と大和は「幽」と「顕」を象徴する場所だったのである。

 古墳時代から飛鳥時代へと移り変わる6世紀半ばには、伝来した仏教など先進的な文明により社会は大きく変わる。政治や権力の象徴としての古墳の役割は、仏教寺院が担うようになる。飛鳥時代後期には、全国各地で寺院が造られ、朝廷は遣隋使や遣唐使がもたらした最新知識を受け入れながら、新しい国の形を整えていく。

  古代東北に目を向けると、龍への信仰や日本神話とのつながりが見えてくる。ヤマト系の神々に出雲を追われた国つ神たちは東北や九州へ移る。蝦夷(えみし)は東北を「ひのもと」と呼び、朝廷は東北を道の奥と呼び、「陸奥(みちのく)」と名付けたのである。東北の民は朝廷軍など中央の権力と何度も戦い、敗北。信濃も越後もまずは出雲系の神々に支配され、それが大和朝廷に統合されていくことになる。『日本書紀』はスサノオのオロチ退治を除いて、出雲の神々の神話を避けている。神話の枠組みは似ていても、『古事記』は国つ神(土着神)である出雲の滅びを語ろうとする。「幽」、つまり祭祀(さいし)の出雲、「顕」、つまり政治の大和の違いが記紀の編集の違いになっている。
 かつて出雲には「和」と呼ばれる国の人々が暮らしていた。やがて大陸から九州に渡ってきた邪馬台国、つまりヤマト族の集団が北上を続け、出雲で「和」の人々と敵対関係になった。最終的に畿内全域を統一したヤマト族は、出雲王朝「和」から国を譲られたという「出雲の国譲り」の神話を広め、大和朝廷を作り上げた。ヤマト族は「和」の国を邪馬台国に組み入れた。だが、「和」と交流のあった中国は、それをヤマト族の侵略行為だとして、併合を認めなかったのではないか。そのためヤマト族は出雲王朝の「和」から正式に国を譲ってもらったことにした。そして、邪馬台国と「和」という二つの国を統合した。新しい国は「大きな和の国」、つまり「大和」。「和」の人々は「出雲の国譲」のあと、畿内から遠い九州や東北に逃れた。東北に安住した者は蝦夷(えみし)と呼ばれ、九州に安住した人は隼人(はやと)と呼ばれるようになった。となると、信濃や越後は蝦夷の末裔ということになる。九頭龍伝説もある。それゆえ、越後や信濃に出雲や小出雲の地名が残り、出雲系の神社があることも頷け、蝦夷が住んでいたことになる。
 聖武天皇東大寺の大仏に鍍金(メッキ)する黄金を求めていると、たまたま東北で金が産出した。それまで朝廷にとって蝦夷の東北は価値のない土地だった。だが、蝦夷の国に黄金が出現したため、朝廷軍が送り込まれる。多賀城律令国家としての体制を整えた奈良朝廷が大野東人(おおののあずまひと)に命じて、陸奥国の政治・軍事の拠点として724年に築城したもので、国府鎮守府が置かれた。802年征夷大将軍坂上田村麻呂多賀城から大軍を率いて蝦夷最大の拠点であった衣川柵を破り、軍事基地としての鎮守府を胆沢城に移した。これ以後、多賀城国府として陸奥国の統治を行う中枢基地となる。

 多賀城に赴任した官吏の一人が万葉歌人として知られる大伴家持。彼の長歌が『万葉集』巻十八にある「賀陸奥国出金詔書歌」である。「海行かば」の歌詞の部分は、「陸奥国出金詔書」(『続日本紀』第13詔)の引用部分にほぼ相当する。歌詞は2種類ある。「かへりみはせじ」は、「賀陸奥国出金詔書歌」による。「長閑には死なじ」となっているのは、「陸奥国出金詔書」による。大伴家持詔勅の語句を改変したと考える人もいるが、大伴家の「言立て(家訓)」を、詔勅に取り入れた際に、語句を改変したとも言われる。

 

海行かば 水漬く屍

山行かば 草生す屍

大君の 辺にこそ死なめ

かへりみはせじ

(長閑には死なじ)

 

If I go away to the sea,

I shall be a corpse washed up.

If I go away to the mountain,

I shall be a corpse in the grass.

But if I die for the Emperor,

It will not be a regret.

 

 歌詞は大伴家持越中国の国守に赴任していたときの749年、家持が詠んだ長歌陸奥国より金を出せる詔書を賀(は)ける歌」の一節。聖武天皇は、大仏に塗る金が奥州で発見されると喜んで、詔(みことのり)を発し、その中で、天皇の「内の兵」(親衛隊)としての大伴、佐伯二氏をたたえ、家持にたいする叙位もおこなった。「海行かば…」はもともと大伴、佐伯両氏に伝わる戦闘歌謡で、詔にもそれが引かれていた。藤原氏の進出で、大伴氏の伝統である天皇の親衛隊の地位を失っていた家持は、詔を読み、「天皇はわれらを見捨てていない」と大いに感激、「詔」にある「海行かば…」の言葉を詠み込んで歌をつくった。この家持の歌に、東京音楽学校(現・東京芸術大学)講師、信時潔(のぶとき・きよし)が曲をつけたのが「海行かば」。

*「海行かば」はYouTubeで聴くことができる。また、信時は慶應義塾塾歌も作曲している。ついでながら、「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌(いわほ)となりて苔のむすまで」は、10世紀の『古今和歌集』巻七「賀歌」巻頭に「読人知らず」として「我君は千代に八千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」とある短歌が初出である。

 

 「海行かば」の歌詞はヤマト系の大伴家持が出雲系の人たちと戦い、支配することを聖武天皇に誓ったものであり、小出雲に生まれた私は、当時生きていたとすれば、恐らく支配される側から家持の歌を受け取ることになるだろう。となると、「海行かば」の歌詞はヤマト系の軍人が天皇に忠誠を誓ったものということになり、戦前に「準国歌」と呼ばれることが頷けるのである。だが、「海行かば」の歌詞は蝦夷や隼人には敵の軍歌であり、また戦前の多くの日本人には戦死者への鎮魂歌でもあった。

 小出雲の人たちは「海行かば」をどのように受け取ってきたのだろうか。