深川と怪談(3)

(5)『怪談牡丹燈篭

 『怪談阿三の森』をより洗練させ、完成させたのが『怪談牡丹燈篭』。『阿三の森』は円朝作ではないと言われるが、その完成形である『牡丹燈篭』は紛れもなく円朝の作品。円朝はお露と新三郎の悲話に加え、お露の父飯島平左衛門とお国、新三郎が幽霊に取り殺される原因をつくった伴蔵とお峰夫婦を登場させ、因縁が複雑に絡み合う落語に仕立て上げている。原話は中国の「牡丹燈記」とされている。落語の粗筋を述べるのは何とも野暮なことだが、およそ次のようなシナリオである(円朝の原作の文章を実際に味わってみたい方はhttp://www.aozora.gr.jp/cards/000989/files/2577_38206.htmlを参照)。

 旗本の飯島平左衛門の娘お露は、一目惚れした萩原新三郎に恋い焦がれ、それで亡くなり、乳母のお米もあとを追って死んでしまう。それを聞き、新三郎は念仏三昧の日々を送っていた。お盆の十三夜、新三郎の家にお米に伴われてお露が訪ねてきた。その手には牡丹燈籠が下げられている。死んだ筈の二人の訪れにビックリするが、久しぶりの再会を喜び、二人は睦みあう。下男の伴蔵がそれを覗いていた。蛍が飛び交う蚊帳の中で新三郎が抱いているのは骸骨… 平左衛門の後添えのお国は隣家の次男源次郎と実はいい仲。浮気現場を平左衛門に見つかっても悪びれず、逆に源次郎をけしかけて平左衛門を斬り殺させる。その二人の傍に蛍が飛び交う…

 伴蔵が蚊帳の中で誰かと話しているようなので、女房のお峰は蚊帳を取っ払うと、伴蔵は一人で、汗びっしょり。新三郎を守るために貼ったお札をはがし、新三郎に持たせた死霊除けの尊像も取り上げてくれないか、とお米が頼みに来たのだと言う。それを聞いた女房のお峰は、突飛なことを言い出した。「百両持ってきておくんなさりゃぁ、お札をはがして差し上げます、と言え。」やがてあらわれたお米に話をすると、金は明晩と約束。これで貧乏暮らしとはおさらばだ、と夫婦は笑いが止まらない。

 翌日、新三郎を見舞う伴蔵とお峰。金無垢の尊像をすり替えて、幽霊を待っていると、空から小判が降ってくる。お札もはがすと、お露とお米は礼を言って家の中に。結局、幽霊に手招きされて、新三郎はあの世へと旅立った。

 それから一年。伴蔵とお峰の夫婦は幽霊からもらった百両を懐に故郷に帰り、今では関口屋という荒物商いの店を構え、たいそう繁盛していた。一方、源次郎とお国は平左衛門を殺したあと、有り金を奪って逃げたのだが、途中で源次郎の足が萎え、身ぐるみ盗まれて哀れな暮らし。お国が料理屋で酌婦として稼ぐうちに、関口屋と知りあい、深い仲になっていた。亭主の浮気を人から聞いて知ったお峰は、帰ってきた伴蔵と一悶着。頭に血の上ったお峰は、つい幽霊からもらった百両のことを口走ってしまう。

 お国は、同僚の姉が平左衛門殺害時にとばっちりで死んだ女中だと知る。因縁におののいたお国は源次郎にすがりつくが、源次郎は刀を抜いて暗闇に切りかかり、足がもつれ転んだ拍子に自らを突き刺してしまう。それに抱きついて、お国も果てる。蛍だけが妖しく光っていた… さて、土手を行くのは伴蔵とお峰の夫婦。悪い噂が広まる前に逃げようと、例の金無垢の尊像を掘り出しに来たのだ。お峰に見張りをさせて伴蔵が掘り出しにかかったと思いきや、なんと隠し持った脇差でお峰の横腹を突く伴蔵。また何かの拍子に旧悪をわめかれてはたまらないと口封じの殺害。帰ろうとすると、川の中から白い手が伸びてきて、伴蔵を引きずり込む。そして、あとには蛍が飛び交うだけ…

(6)怨霊、祟り

 人が死ぬとその魂が霊として肉体を離れ、様々な災いを起こすことは古くから考えられていた。平安時代には「御霊信仰」が流行した。怨霊は恨みを残して非業の死をとげた者の霊である。その霊を鎮め、神として祀れば、「御霊」としての霊は鎮護の神として平穏を与えるというのが御霊信仰で、その鎮魂のための儀式として御霊会(ごりょうえ)が宮中行事として行われた。

 日本が仏教の力を借りて国を統治したのは、怨霊に対する怖れが大きな理由だった。そこには日本最初の怨霊と呼ばれる人物が関わっている。その人物が「長屋王」(684~729)。長屋王天武天皇の皇子と天智天皇の皇女の間に生まれた。藤原氏の四兄弟は天皇と姻戚関係を結ぶべく、妹の光明子聖武天皇の皇后にしようと働きかけた。だが、長屋王はこれに強く反対し、藤原氏と対立。729年、長屋王が国家を転覆しようとしているという密告によって、藤原四兄弟が率いる軍勢は、長屋王の邸宅を包囲し、長屋王は自害に追い込まれた。

 長屋王の死後、異変が相次ぐ。『日本霊異記』によると、長屋王の遺骨を土佐の国に移して葬らせたところ、農民たちの変死が相次ぐようになり、このままでは「親王の怨霊で、国中の農民が死んでしまうので、埋葬場所を変えて欲しい」という嘆願書が役所に出された。さらに、都には疫病が発生、大勢が死ぬ中、長屋王を抹殺した藤原四兄弟は、わずか四か月の間に次々と命を落とした。この祟りに対し、聖武天皇神道以上に頼ったのが仏教。疫病の流行が止むことを祈願し、各地に釈迦像を造り、大般若経の写経を命じた。741年に国分寺の創建を宣言、さらに743年には大仏建立を発表した。

 794年、桓武天皇は建設途中の長岡京を放棄し、平安京への遷都を発表したが、これが日本の仏教界の二人の巨人、最澄空海の運命を変えていく。桓武天皇が遷都した平安京の、魔が入ってくる「鬼門」の方角にある寺に籠っていたのが最澄桓武天皇平安京を怨霊から守るため、最澄に興味を持ち、802年には国費留学生として唐に派遣した。最新の仏教を学び、怨霊がもたらす疫病や死から親族や民を守ってもらうのがその目的だった。実際、最澄が唐から戻って最初にしたことは、病床の桓武天皇への祈祷だった。だが、その甲斐も虚しく桓武天皇は亡くなる。その後を継いだ息子の平城天皇は、弟の伊予親王を謀反の疑いで服毒自殺に追い込み、怨霊にしてしまう。自分も二年で身体の不調を訴え、弟に譲位、その後、弟の嵯峨天皇と対立して失脚。今度は自分自身や子供までもが怨霊になることに。

 空海密教パワーを信じた嵯峨天皇は日本中に疫病が流行った際に彼に祈祷を命じる。すると今まではびこっていた病気はたちまち治り、人々は回復に向かったという。嵯峨天皇空海への信頼を深め、823年には京都の東寺を空海に与える。嵯峨天皇の次の淳和天皇も、空海に怨霊を鎮める法会を依頼している。神道の中心である天皇が、仏教の密教儀式を行っていたのである。