「Unified by Emotion」は「心でつながる」ことだと解説されると、ぎょっとするのは私だけではあるまい。その上、「感動で結ばれる」、「感動の共有」から「心で結ばれる」を通って、「人の絆」にまで結びつけるなら、何でもありの言葉の魔術としか言いようがなくなる。伝言ゲームの最初が「United by Emotion」、最後は「心の絆」。こうなると、成程と唸るほどの言葉の悪だくみ、悪用が透かして見えてくる。
スポーツの感動の根幹にあるのは言葉による感動とは違う言葉にならないものの筈である。一観客に過ぎない私にとってのスポーツの感動は、競技と競技者のパフォーマンスに対する歓喜や落胆である。一方、コロナ感染症のニュースも不安、恐怖といった感情を人々にもたらす。これら感動も感情も、いずれも確かにemotionである。オリンピック競技を観戦し、そのパフォーマンスに歓喜し、落胆、失望するとき、私たちはそれら感情を他人と共有するのである。ニュースで感染者数や重症者数、死亡者数を知り、不安や恐怖をおぼえるとき、私たちはそれら感情をやはり他人と共有するのである。つまり、スポーツとニュースのいずれの場合も、私たちはその内容について様々な感情を共有する(unified by emotion)のである。
スポーツはルールに従った勝負であり、医療が知識に基づく治療であるとすれば、それらは見かけと違って、実はよく似ているのである。勝負がもたらす歓喜や落胆の感情、病気がもたらす不安や恐怖によって人々は結びつけられ、同じ感情を共有することになる。スポーツは生を、病気は死を背負い、それゆえ、共に言葉を超えた生と死とについての感情体験を根幹にもっているのである。言葉で表現される喜びや悲しみを超えて、生死の感情自体を示現する大きな二つの手立てがスポーツと病気なのである。
言葉を操る元オリンピアンの解説を信じるより、生が躍動する運動行為のもたらす感動を直接に共有することは、恋の感情に似て、言葉を超えたものを持っている。死については改めて言及する必要はないだろう。生と死への感情は言葉を超えたものを含み、それを忘れたのでは生と死の本質は掴み切れないと思われてきた。
とはいえ、言葉の役割も軽くはなく、コロナ感染症に対処するには言葉による繋がり(Unified with language)が不可欠である。さらに、それを超えて、言葉によらない繋がり(Unified without language)も必要であり、それゆえ、Unified by KnowledgeとUnified by Emotionの共存が当たり前のように信じられてきた。
コロナとオリンピックが共に現存していることに対する私たちの生活世界の背後には、私たちが感情によってつながって(Unified by Emotion)おり、様々な知識、情報、言葉を超えた生と死への喜びと悲しみが共存し、絡み合っていることを忘れてはなるまい。