スポーツ哲学に向けての素描

 スポーツは行為や行動の一つであり、スポーツの運動行為を雛型にして一般的な行為を考えることができるのではないか、というのが始まり。行為のモデルとしてスポーツ、運動を取り上げてみようという訳である。つまり、スポーツや運動こそが人の行為の集約であり、典型例なのだと考えようというのである。本末転倒ではないかと訝る向きもあるのではないか。だが、それに抗して、行為の中の一例が運動、スポーツだという常識を逆手にとって、あえて一般的な行為をスポーツの運動行為によって解釈し、理解してみようというのである。すると、野球やサッカーなど、人気のあるスポーツは社会的な行為、自己や他人の行為を考える際に大いに参考にできるモデルということになる。
 スポーツを教え、学ぶのは文化や歴史を教え、学ぶのに比べると様々な点で違う。スポーツの方が圧倒的に有利で、どんな子供でも簡単にボールを蹴り、打つことができる。走り、跳び、投げるといった生得的な運動動作がそのまま陸上競技になっており、国籍、文化、言語に無関係に、誰もが楽しめるのがスポーツであり、それらは自然言語や文化に囚われないという途方もない利点を有している。英語がわからなくてもサッカーやラグビーを学び、日本語を知らなくても柔道や剣道を極め、楽しむことができる。
 だが、全く自由に楽しめる訳ではなく、どのようなスポーツも何らかの規則、ルールをもち、それが言葉と同じような役割をもち、それを遵守した上でゲームや試合が行われる。ゲームという行為は「勝つ」ことを目的とした行為であり、私たちはそれを原点にして人の行為、行動を考えることができる。自由意志による行為とは、勝つという欲求、動機によるゲームだと捉えることができる。自由意志と欲求は補完的であり、欲求を自由にもち、達成することが自由意志をもつことであり、自由意志をもてば自らの欲求が充足できるという関係になっている。
 野球でもサッカーでもよいし、陸上競技のどれかでもいい。あるいは将棋やチェスというゲームでもいい。ゲーム、レースと呼ばれるどれでもいいし、自分がやる場合でも見るだけでも構わない。兎に角、どれか一つ具体的に想像してほしい。練習して技を身につける、身体を鍛える、相手に勝つといった楽しみのためにはルールや規則を守って参加しなければならない。学業成績や業績評価さえもゲームやレースに似ている。ルール破りは反則であり、実際反則するとフェアーではなくなり、面白くない。最低限の正義とはルールを遵守することである。このルールや規則とその意味論や語用論がスポーツの実践だと考えてみよう。特定の言語を使って、ゲームが実行され、それに参加する私は勝つことが目的になっている。異なるスポーツは異なる言語をもち、その言語を駆使するために適切な練習を積み重ねる。複数の言語に習熟する者もいれば、一芸に秀でる者もいる。自らは参加せず、観客になるだけであっても、その言語をプレイヤーと同じように知っていないと、ゲームを楽しむことはできない。ルールの共有によってプレイヤーと観客はつながっているのである。
 知る行為のゴールは知識の獲得である。感じる行為のゴールは感情をもつことである。ゲームや試合を行うゴールは勝つことである。このように並べるなら人の行為とスポーツは重なり合っていることがわかる。知り、感じる行為はスポーツ行為とダブるのである。となれば、言語行為をスポーツ行為を使って捉え直すこともできるだろう。すると、色んなスポーツとそれらに共通する言葉はUniversal languageのモデルとして考えることができるのではないか。スポーツ言語に共通するルールと不変的な特徴を見出すことによって、言語の普遍的特徴が浮かび上がってくる。
 ルールに従い、言葉を使いながら、言葉を越えるのがスポーツである。スポーツ行為はプラグマティックスそのもので、しかもはっきりした目的(勝つこと)をもっている。楽しいゲールを通じて、勝つことが目標である。そのようなスポーツの言語に近いのは、音楽や数学の言語である。言語としてみても音楽や数学の言語は明晰判明なルールの集まりである。その意味で比較的習得が簡単である。一方、文学や歴史はスポーツと違う言語で、自然言語に近く、それに大きく依存している。スポーツ言語は観客には快楽、享楽のための言語だが、競技者にはその言語が音楽や数学に似ていて、勝つための不可欠の手段になっている。