スポーツはルールをもち、勝ち負けがゴール。行為のモデルとしてスポーツを捉え、観光も人の行為だとすれば、そこから何が見えてくるのか。それは本末転倒だと訝る向きもあろうが、それに抗して、一般的な行為をスポーツや観光によって解釈してみよう。
関心のないスポーツに対して私たちは傍観者になる。それを見るのは偶然であり、自ら関与することはない。だが、関心をもつスポーツとなると、人は観客となる。単なる風景には傍観者であっても、絶景には観光客となって足を運ぶ。積極的に劇場に出向くのと同じで、自らの欲望をそのスポーツ、絶景に関与することによって満たそうとする。観客、観光客は、行為主体としてスポーツの試合や舞台のプレーヤー、当事者になるのではなく、彼らのもつ役割、状況がなく、実行される状況や場面が付随していない。
こうして、傍観者、観客、観光客、当事者の異なる役割を私たちはもっていて、融通無碍にその役割を演じ分けていることになる。サッカーの選手は舞台の役者、行為の実行者と同じであり、特定の試合という文脈が定まった上で存在している。それゆえ、ローカル、局所的でなければ当事者にはなれない。文脈に埋め込まれることによって、試合に参加できるという訳である。一方、スタンドの観客は試合を外から見ていて、グローバルな立場から観覧している。敵の動向もよく見え、試合に対しては第三者、外国人のような立場をとることができる。こうして、ローカルな参加者とグローバルな観客という二つの立場があることになり、観光地の住民と観光客の立場を考える際のモデルになる。
さて、このようなモデルを念頭に置くと、A市民も上述の三つの役割を演じ分けていることになる。試合や舞台の場所はA市。これはB市民とは異なるローカルな背景である。市民とすれば、誰もが三つの異なる役割をもつのだが、それでもそこには軽重の差が残っている。
傍観者、観光客、当事者の間の関係で注目すべきなのは、グローバルな観点からローカルな観点への移行である。普通の日本人は傍観者としてA市を捉える。傍観者であるからグローバルな視点からA市を考えることができる。その中でA市でスキーを満喫した人は観光客であり、彼らはA市での快楽を享受したのだ。A市の観光を支える関係者は当事者として地域の中でA市を演出する人たちである。彼らはローカルな事柄に執着せざるを得ない。
A市民はA市に対してどのような立場でどのように振る舞ってきたのか、あるいはこれから振る舞うのか、暇な際に是非思いを巡らしてほしい。