痩せ我慢と日和見

 「痩せ我慢」の反対は「デブ大暴れ」だと笑わせたところで、何の意味もなく、「日和見」が「痩せ我慢」の反対の意味だろう。それぞれにもっと「耳障りのよい」別の謂い回しがあり、「原理原則を守る」ことと「臨機応変に振る舞う」ことと言えば、より具体的でわかり易いのかも知れない。英訳しても、例えばendurance for pride's sakeとopportunismと、やはり色がついてしまう。いずれも匙加減次第で、人の性格や生き方の長所とも短所ともなる語彙で、いずれが正しく、いずれが間違いと明確に断定できるものではない。臨機応変日和見紙一重であり、痩せ我慢と偏屈もまた然り。その差は状況次第で、何とも微妙。

 そんな融通無碍な態度で福澤諭吉の「痩我慢の説」を見てみよう。福澤は明治25(1892)年1月末に、勝海舟榎本武揚宛に「痩我慢の説」と題した草稿を送り、返書を求めた。この草稿は明治34(1901)年になって「時事新報」で公表される。「立国は私なり、公にあらざるなり」と始め、国家は必要だが、忠君愛国の情は私情にすぎないと述べる。たとえ小国であっても忠君愛国の情を持つことは「瘠我慢」なのだと福澤は考える。そして、勝に対して、江戸城を開城し、内乱を避けた功績は認めるが、幕府に対する「瘠我慢」の情がなかったと非難する。また、榎本も徳川の政府を維持しようと力を尽し、政府の軍艦数艘を率いて箱館に脱走し、西軍に抗して奮戦したが、ついに窮して降参したることは感服することではあるが、降参した後に東京に護送されて、新政府に協力したことはやはり「瘠我慢」の情がなかったと非難する。

 勝は「行蔵は我に存す、毀誉は他人の主張、我に与らず我に関せずと存候(世に出るも出ないも自分がすること、それを誉める貶すは他人がすることで、自分はあずかり知らぬことと考えている)」と彼らしい返答をしている。当時、外務大臣に就いていた榎本は、「多忙につき、そのうち返答する」と逃げた。痩我慢の説は上述の通り明治34(1901)年1月に世間に公表されたが、勝は既に明治32年に、福澤も明治34年2月に死去し、榎本は返答しないまま終わった。

 そんな中で、徳富蘇峰が「国民新聞」に「痩我慢の説を読む」という反論の記事を掲載した。徳富は、官軍との戦いを避けたのは日本の内乱に外国勢力が干渉することを恐れたからだ、という勝の持論を持ち出し、当時の欧州列強の日本への姿勢から幕府が薩長主体の官軍と戦端を開けば、外国がその内乱に干渉するのは明らかで、その愚を犯さず江戸城を開城し、明治維新への扉を開いたとし、勝の功績を称えた。福澤は、絶筆ともいうべき反論で、親仏派がフランスの資金援助を受けたのは軍備強化のためで、明治政府が外国から資金を借りているのと何ら変わらないのだ、と主張し、小栗上野介三河武士の鑑であると賞賛し、弁護した。

 勝も福澤も心底幕臣だったが、融通無碍な幕臣と痩せ我慢した幕臣の違いが際立っている。だが、勝も福澤も自らの生き方については随分と痩せ我慢している。痩せ我慢して「痩我慢の説」に賛同するか、反論を展開するか、あるいは臨機応変に「痩我慢の説」を適切に利用するか、それはこれを読む人に任せたい。この融通無碍な態度こそ福澤が嫌うもの、勝が認めるものだろうが、それもまた読む人次第というものである。